こばやかわ ひでかね
| 地域 | 九州・中国 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 毛利・小早川系 |
| 大名家 | 毛利 |
| 家紋 | 丸に違い釘抜き |
| 主武器 | 太刀・弓 |
| 衣装・甲冑 | 南蛮風具足 |
| 武将タイプ | キリシタン・武勇 |
毛利元就の九男。小早川隆景の養子となり筑後久留米城主となる。関ヶ原では西軍として凄絶な城防衛戦を展開。
小早川秀包とは
小早川秀包は、毛利元就の九男で、のちに小早川隆景の養子となった武将です。はじめは毛利元総と名乗りました。
人質として秀吉のもとへ
秀包は、毛利家と秀吉が和睦したのち、人質として大坂に送られました。秀吉にかわいがられ、その名の一字を与えられたとされます。
隆景の養子
秀包は、子のいなかった小早川隆景の養子となりました。のちに隆景は秀秋を養子に迎えたため、秀包は別家を立てることになりました。
筑後久留米
九州平定ののち、秀包は筑後の久留米を中心に領地を与えられ、久留米城主となりました。
キリシタン大名
秀包は、大友宗麟の娘・桂姫を妻に迎え、自らもキリスト教の洗礼を受けたと伝えられます。
朝鮮での戦い
文禄の役では朝鮮半島に渡り、碧蹄館の戦いなどで活躍したと伝えられます。
関ヶ原の戦い
慶長5年(1600年)、秀包は西軍として近江の大津城攻めに加わりました。京極高次の守る大津城は、関ヶ原の本戦の日に開城しました。
久留米城の明け渡し
秀包が留守にしていた久留米城は、東軍の黒田如水や鍋島家の軍に攻められ、明け渡されました。
改易と最期
関ヶ原ののち、秀包は領地を失い、毛利家の領国の長門に移りました。翌年、病のために亡くなったとされます。
毛利家の一門として
秀包の子孫は、毛利家の家臣として長州藩で続き、毛利の名字に戻ったとされます。
毛利元就の子どもたち
元就の子には、毛利隆元・吉川元春・小早川隆景のほか、各地の国衆の家を継いだ多くの男子がいました。秀包は、その末の子にあたります。
久留米城
久留米城は、筑後川のほとりにあった城です。のちに有馬家が入り、久留米藩の本拠として整えられました。
大津城の戦い
京極高次の守る大津城は、西軍の大軍に囲まれて激しい攻撃を受けました。秀包も立花宗茂らとともにこの城を攻めました。
妻・桂姫
秀包の妻の桂姫は、大友宗麟の娘で、キリスト教の信者でした。洗礼名はマセンシアと伝えられます。
碧蹄館の戦い
文禄2年(1593年)、小早川隆景や立花宗茂らの日本軍は、碧蹄館で明軍を破りました。秀包も、この戦いに加わったとされます。
毛利家の家臣団へ
秀包の死後、その家は毛利家の家臣として続きました。
評価
秀包は、毛利家の一門として生まれ、小早川家・豊臣家とも深く関わりながら生きた武将です。関ヶ原で領地を失ったものの、その家は毛利家のもとで続きました。
このイラストについて
このイラストは、燃える城を遠くに見ながら、弓を手に立つ秀包を描いています。
弓を構えた姿と鋭い目つきで、九州や朝鮮で戦った武将の気迫を表しました。
霧と煙の立ちこめる戦場は、関ヶ原の戦いのころの緊迫した空気をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
安芸の一国人にすぎなかった毛利氏を、元就が一代で中国地方の覇者へ押し上げた。出雲の尼子氏と周防の大内氏という二大勢力に挟まれながら、次男元春を吉川家へ、三男隆景を小早川家へ送り込んで両家を一門化し、「毛利両川」と呼ばれる体制を作った。
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