聚楽第行幸とは|起請文に署名した29人の武将と、その後の運命 ― 家康・秀長・利家から長宗我部元親まで

聚楽第行幸の行列のイラスト

天正16年(1588)4月14日、後陽成天皇が豊臣秀吉の京の邸宅・聚楽第を訪れました。これが「聚楽第行幸(じゅらくだいぎょうこう)」です。天皇は5日間にわたって聚楽第に滞在し、そのあいだに諸大名は天皇の前で、秀吉に従うことを誓う起請文を差し出しました。

起請文に名を連ねた武将は、あわせて29人。徳川家康や豊臣秀長から、長宗我部元親、井伊直政まで、豊臣政権の顔ぶれがそろっています。この記事では、行幸の流れを短くおさえたうえで、署名した29人を一人ずつ紹介し、それぞれがその後どんな運命をたどったのかを追います。

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目次

聚楽第行幸の早見表

日程天正16年4月14日〜18日の5日間(西暦では1588年5月9日から)
場所京都・聚楽第(前年9月に完成した秀吉の政庁兼邸宅)
天皇後陽成天皇
迎えた人関白・太政大臣 豊臣秀吉
意味天皇が臣下の邸宅を訪れるのは、永享9年(1437)に後花園天皇が足利義教の室町殿を訪れて以来、約150年ぶり
献上京の地子銀5530両余を禁裏に、近江高島郡の所領を上皇や公家・門跡に献じた
起請文4月15日。公卿の6人が連署した1通と、侍従クラスの23人が連署した1通の、あわせて29人
おもな記録大村由己『聚楽行幸記』、公家の日記『言経卿記』『兼見卿記』など

行幸の5日間のくわしい流れや献上品については、姉妹サイト日本の歴史ガイドの聚楽第行幸とは|後陽成天皇を迎えた五日間で解説しています。

大名たちは何を誓ったのか

聚楽第行幸の行列のイラスト
聚楽第へ向かう行幸の行列(イメージ)

起請文は、神仏に誓いを立てて約束を破らないことを示す文書です。聚楽第行幸の2日目、4月15日に大名たちが差し出した起請文には、おおよそ次の三つのことが書かれていました。

  • このたびの行幸に供奉できたことを、ありがたく思うこと
  • 禁裏(天皇)の御料所や、公家・門跡の所領を侵さないこと
  • 関白(秀吉)の命令には、何事であっても背かないこと

大切なのは三つ目です。天皇の前で「朝廷を守る」と誓わせ、それと一続きに「関白の命に従う」と誓わせることで、秀吉への服従を、天皇への忠誠と同じ重みをもつ約束に仕立てたのです。前年には九州を平定し、残る大きな勢力は関東の北条氏と奥羽の諸大名だけ。この誓いは、その後の小田原征伐へとつながっていきます。

署名から見える「豊臣」の名字

起請文の署名を見ると、もうひとつ興味深いことがわかります。前田利家は「豊臣利家」、宇喜多秀家は「豊臣秀家」、蒲生氏郷は「豊臣氏郷」と、多くの大名が「豊臣」の名字(本姓)で署名しているのです。秀吉は、自分が朝廷から賜った「豊臣」の姓を有力な大名たちにも与え、一族に準じる存在として政権に組みこんでいました。

一方で、徳川家康は「源」、織田信雄と織田信包は「平」、長宗我部元親は「秦」、井伊直政は「藤原」と、それぞれ本来の姓で署名しています。誰が「豊臣」を名乗り、誰が名乗らなかったのかは、秀吉との距離を考えるうえで手がかりになります。

公卿6人の起請文 ― 政権の最上位

1通目の起請文には、三位以上の公卿にあたる6人が名を連ねました。署名の位置は、のちの豊臣政権の序列そのものです。

人物当時の官職その後
織田信雄内大臣天正18年(1590)、小田原征伐ののちの国替えを拒んで改易。秀吉の御伽衆となり、のちに大和で5万石の大名に返り咲く
徳川家康大納言天正18年に関東へ移封。関ヶ原の戦いに勝って江戸幕府を開く
豊臣秀長権大納言天正19年(1591)正月、大和郡山で病没。秀吉の弟として政権を支えた最大の後ろ盾を失う
豊臣秀次権中納言天正19年に秀吉から関白を譲られるが、文禄4年(1595)に高野山で切腹
宇喜多秀家参議五大老のひとりとなるが、関ヶ原で西軍の主力として敗れ、八丈島へ流される
前田利家右近衛権少将五大老のひとりとして秀頼を支えるが、慶長4年(1599)に病没

このとき家康と並んで大納言の位にあった秀長は、わずか3年後に世を去ります。秀長と秀次という秀吉の身内二人が、どちらも10年以内に姿を消すことになるのは、豊臣政権にとって大きな痛手でした。同じ大納言として並んだ二人の関係は、秀長と家康の関係を年表で整理でくわしく取り上げています。

侍従クラス23人の起請文 ― 豊臣政権を支えた大名たち

2通目の起請文には、侍従以上の官位を与えられた23人が名を連ねました。署名には「土佐侍従」「丹後侍従」のように、領地の名を冠した呼び名が使われています。

署名の呼び名人物その後
津侍従織田信包(信長の弟)のちに伊勢の領地を失い丹波へ。大坂冬の陣の直前、大坂城内で没する
丹波少将豊臣秀勝(秀吉の甥)文禄元年(1592)、朝鮮出兵のさなかに病没
三河少将結城秀康(家康の次男)秀吉の養子をへて結城家を継ぎ、関ヶ原ののち越前の大名となる
左衛門侍従斯波義康名門・斯波氏の流れをくむ武将
東郷侍従長谷川秀一信長の小姓出身で越前東郷の城主。文禄の役の陣中で病没
北庄侍従堀秀政天正18年、小田原征伐の陣中で病没
松嶋侍従蒲生氏郷天正18年に会津の大名となるが、文禄4年に40歳で病没
丹後侍従細川忠興関ヶ原で東軍。子の代に肥後熊本54万石の大名となる
三吉侍従織田信秀(信長の子)信長の子のひとりで、兄弟とともに秀吉に仕えた
河内侍従毛利秀頼天正18年に信濃飯田の城主となる
敦賀侍従蜂屋頼隆翌天正17年に病没し、家は断絶
越中侍従前田利長(利家の嫡男)父のあとを継ぎ、家康との対決を避けて加賀百万石の礎を固める
松任侍従丹羽長重関ヶ原で改易されたのち、大名に復帰して奥州白河の城主となる
源五侍従織田長益(有楽斎)関ヶ原で東軍。茶人「有楽斎」として名を残す
岐阜侍従池田輝政関ヶ原で東軍の主力。播磨姫路52万石の大名となり、姫路城を築く
曽祢侍従稲葉貞通(稲葉一鉄の子)関ヶ原ののち豊後臼杵へ移る
豊後侍従大友義統(大友宗麟の子)文禄の役での失態により改易。関ヶ原の際に豊後で挙兵するが、石垣原の戦いで敗れる
伊賀侍従筒井定次慶長13年(1608)に改易される
金山侍従森忠政(森蘭丸の弟)関ヶ原ののち美作津山の大名となる
井伊侍従井伊直政(家康の家臣)関ヶ原で活躍し、近江佐和山(のちの彦根)の城主となる
京極侍従京極高次関ヶ原の直前に大津城に籠城して西軍を引きつけ、のちに若狭小浜の大名となる
立野侍従木下勝俊(北政所の甥)関ヶ原の前に伏見城を退去して改易。のちに歌人「長嘯子」として知られる
土佐侍従長宗我部元親慶長4年(1599)に病没。跡を継いだ盛親は関ヶ原で西軍につき改易

家康の家臣である井伊直政が、大名と並んで署名していることにも注目です。秀吉は家康の重臣にも官位を与えて取りこみ、徳川家を内側からも政権に結びつけようとしていました。

29人のその後 ― 12年後の関ヶ原で分かれた道

同じ日に同じ誓いを立てた29人ですが、その後の運命は大きく分かれました。

  • 関ヶ原の前に世を去った人:豊臣秀長、豊臣秀次、前田利家、豊臣秀勝、堀秀政、蒲生氏郷、蜂屋頼隆、長宗我部元親など。秀吉より先に亡くなった人も少なくありません
  • 関ヶ原で東軍につき、大名として生き残った人:徳川家康、細川忠興、池田輝政、森忠政、井伊直政、京極高次、前田利長、結城秀康など
  • 関ヶ原の前後に領地を失った人:宇喜多秀家、丹羽長重、木下勝俊、大友義統、そして長宗我部家など

「関白の命に背かない」と誓った大名の多くが、秀吉の死後は家康のもとに集まりました。聚楽第行幸は豊臣政権の絶頂を示す出来事であると同時に、その誓いがいかに秀吉個人の力に支えられていたかを、のちの歴史が教えてくれます。

行幸の舞台裏のエピソード

前田利家が受け継いだ鳳輦

行幸で天皇が乗った輿(鳳輦)は、のちに秀吉から前田利家に与えられ、さらに子の利長に伝わったという話が残っています。利長が富山県高岡の町を開いたとき、これを町人に与え、それが高岡御車山祭の山車のもとになったと伝えられています。

行幸のわずか3か月後に刀狩令

行幸が終わった3か月後の天正16年7月、秀吉は刀狩令と海賊停止令を出します。天皇の前で大名を従わせ、続けて百姓や海の勢力から武器を取り上げる。行幸は、天下統一の仕上げに向けた一連の政策の幕開けでもありました。秀吉の政策については惣無事令・太閤検地・刀狩でまとめています。

年表で見る聚楽第行幸の前後

年月できごと
天正13年(1585)7月秀吉、関白になる
天正14年(1586)2月聚楽第の造営が始まる
天正14年秀吉、「豊臣」の姓を賜り、12月に太政大臣となる
天正15年(1587)5月九州平定
天正15年9月秀吉、完成した聚楽第に移る
天正15年10月北野大茶湯
天正16年(1588)4月14日〜18日聚楽第行幸。15日に諸大名が起請文を提出
天正16年7月刀狩令・海賊停止令
天正17年(1589)11月名胡桃城事件。秀吉、北条氏に宣戦
天正18年(1590)小田原征伐。北条氏が滅び、天下統一
天正19年(1591)正月豊臣秀長、病没

まとめ

聚楽第行幸は、秀吉が天皇を自分の屋敷に迎え、その前で大名たちに服従を誓わせた、豊臣政権の頂点ともいえる5日間でした。起請文に名を連ねた29人の顔ぶれは、そのまま当時の政権の序列を映しています。そして12年後、その多くが関ヶ原で東西に分かれ、勝ち残った者と領地を失った者に分かれていきました。署名の一つひとつに、それぞれの武将のその後の物語がつながっています。

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