山中城の戦いをわかりやすく解説|箱根の土の城はなぜ半日で落ちたのか ― 障子堀、岱崎出丸の攻防、一柳直末と間宮康俊の最期、秀次の初陣の汚名返上【豊臣兄弟!】

天正18年(1590)3月29日、豊臣秀吉の小田原征伐の最初の大きな戦いが、箱根の山中で起こりました。北条家が東海道の守りの要として築いた山中城(やまなかじょう、いまの静岡県三島市)を、総大将・豊臣秀次の率いる大軍が攻め、わずか半日で落としたのです。北条家が最新の技術を注ぎこんだ「土の城」は、なぜこれほど早く落ちたのか。秀吉が「関東を得た喜びも失われた」と嘆いた一柳直末の戦死、白髪を墨で染めて戦った老将・間宮康俊の最期まで、山中城の戦いを登場する武将と戦いの流れからわかりやすく解説します。

先に答え

山中城の戦いは、小田原征伐の緒戦で、豊臣秀次を総大将とする7万近い豊臣軍が、北条方3,000〜4,000の守る箱根の山中城を攻め落とした戦いです。障子堀などで固めた城でしたが、20倍近い兵力差の力攻めの前に、朝に始まった戦いは同じ日のうちに決着しました。

豊臣方も先鋒の一柳直末が鉄砲に撃たれて戦死するなど大きな犠牲を払い、北条方は城主の松田康長、老将の間宮康俊らが討死。副将の北条氏勝は城を脱出して玉縄城へ逃れました。

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目次

山中城の戦いの早見表

日付天正18年(1590)3月29日。朝に攻撃が始まり、同じ日のうちに落城
場所伊豆・山中城(静岡県三島市山中新田)。箱根峠の西、標高約580メートル
豊臣方総大将・豊臣秀次。徳川家康・池田輝政・中村一氏・山内一豊・堀尾吉晴・一柳直末らあわせて約6万8,000
北条方城主・松田康長、副将・北条氏勝、間宮康俊ら約3,000〜4,000
結果豊臣方の勝利。北条方は2,000人近くが討死したとされる
おもな戦死者豊臣方:一柳直末/北条方:松田康長・間宮康俊
同じ日に伊豆の韮山城にも別の軍が攻めかかった(韮山城の戦い)

山中城の戦いの年表

日付できごと
天正17年(1589)11月名胡桃城事件。秀吉が北条家に宣戦を伝える
天正18年(1590)3月1日秀吉、京を出陣
3月27日秀吉、駿河の沼津に着陣
3月28日秀吉が山中城を下見し、秀次・家康らの持ち場を決める
3月29日朝山中城と韮山城に一斉に攻撃開始。岱崎出丸で一柳直末が戦死
3月29日西の丸・三の丸・二の丸が次々に落ち、本丸も陥落。松田康長・間宮康俊が討死、北条氏勝は脱出
4月初め豊臣軍が箱根を越え、小田原城を包囲
7月5日北条氏直が降伏し、小田原開城

なぜ山中城が最初に狙われたのか ― 箱根の関門

山中城は、北条家三代目の北条氏康が永禄年間(1558〜1570)に築いたとされる城です。東海道が箱根の山を越える道のすぐ脇に建ち、西から小田原へ攻めこむ軍を、峠の手前で食い止める役目を負っていました。北条家にとっては、伊豆の韮山城とならぶ、領国の西の玄関口です。

天正15年(1587)ごろ、秀吉との対決が避けられなくなると、北条家は山中城の大がかりな改修を始めました。城の南西に「岱崎出丸(だいさきでまる)」と呼ばれる長い曲輪を張り出し、東海道そのものを城の中に取りこむように守りを固めます。北条氏政・氏直の父子にとって、山中城は豊臣の大軍を箱根で止めるための切り札でした。

一方の秀吉にとって、箱根を越えなければ小田原には届きません。秀吉は山中城と韮山城に同じ日に攻めかかり、西の守りを一気に崩す作戦をとりました。

北条流「土の城」のしくみ ― 障子堀と岱崎出丸

山中城には、石垣がほとんどありません。山の地形を削り、土を盛って土塁を築き、深い堀で曲輪を区切った「土の城」です。なかでも有名なのが「障子堀(しょうじぼり)」です。空堀の底に土の畝(うね)を格子状に残し、障子の桟のような形にしたもので、堀に下りた敵兵は区画ごとに足を止められ、横にも動けなくなります。そこを土塁の上から鉄砲や弓で狙い撃つしくみでした。畝が一列だけのものは「畝堀(うねぼり)」と呼ばれます。

山中城の障子堀は、発掘調査で掘り出され、いまも当時の形がわかるように整備されています。堀の深さは場所によって数メートルから10メートル近くにもなり、関東ローム層の赤土は雨にぬれると滑りやすく、一度落ちたら簡単にはよじ登れませんでした。

城は本丸・二の丸・三の丸・北の丸・西の丸、そして岱崎出丸などの曲輪が尾根に沿って細長く並ぶつくりでした。ただ、急いで広げた城だったため、曲輪どうしの連絡が悪く、どこか一か所が破られると、ほかの曲輪が孤立しやすいという弱点も抱えていました。

兵力くらべ ― 約20倍の差

豊臣方北条方
兵力約6万8,000(資料により6万〜7万)約3,000〜4,000
総大将・城主豊臣秀次(23歳)松田康長
おもな部隊中央:秀次の本隊(中村一氏・一柳直末・山内一豊・堀尾吉晴・田中吉政ら)
左翼:徳川家康
右翼:池田輝政ら
本丸:松田康長
二の丸:北条氏勝
岱崎出丸:間宮康俊

兵力差はおよそ17〜20倍。城攻めには守り手の3倍の兵が要るといわれますが、それをはるかに上回る大軍でした。総大将の秀次はこのとき23歳。小牧・長久手の戦いで大敗した過去を持つ秀次にとって、汚名を返す大事な一戦でもありました。

山中城の戦いに登場した主な武将(豊臣方)

武将山中城での役割
豊臣秀次総大将。秀吉の甥で、のちの関白
徳川家康左翼を率い、西の丸方面から攻める
池田輝政右翼の部隊を率いたとされる
中村一氏秀次隊の主力。配下の渡辺勘兵衛が一番乗りを名のる
一柳直末秀次隊の先鋒。岱崎出丸の攻撃で鉄砲に撃たれ戦死
山内一豊秀次隊の先鋒の一人。直末の戦死の様子が『一豊公記』に伝わる
堀尾吉晴秀次隊の一手として攻撃に加わる
田中吉政秀次の宿老として攻撃に加わる
井伊直政家康の家臣。落城後、足柄城へ向かう

山中城の戦いに登場した主な武将(北条方)

武将山中城での役割
松田康長城主。筆頭家老・松田憲秀のいとこにあたる。天正15年から山中城の普請を指揮し、本丸で討死(享年54とされる)
北条氏勝玉縄城主。北条綱成の孫で、援軍の将として山中城に入った副将格。落城前に脱出
間宮康俊玉縄衆の老将(73歳)。わずか200ほどの兵で岱崎出丸を守り、一柳直末を討ち取って討死
松田康郷・蔭山氏広ら城の守りについた北条家の家臣たち

小田原城には当主の北条氏直と父の北条氏政がこもっていました。山中城を任された将たちは、小田原から送りこまれた北条家の精鋭です。

山中城の戦いの流れ ― 朝の突入から半日での落城まで

障子堀と土塁の山中城に攻めかかる豊臣軍のイラスト(イメージ)
障子堀に守られた山中城へ押し寄せる豊臣軍(イメージ)

① 3月27〜28日 ― 秀吉、沼津から山中城を見下ろす

3月27日、秀吉は駿河の沼津に着陣しました。翌28日には自ら山中城の近くまで出向いて城のようすを確かめ、攻撃の持ち場を決めたといわれます。中央の東海道沿いからは秀次の本隊、北側(城の西の丸方面)からは家康、南側からは池田輝政らが攻める三方からの包囲です。翌朝の総攻撃に向け、箱根の山に大軍が陣を敷きました。

北条方の間宮康俊は、戦いを前に、まだ若い孫の彦次郎(のちの間宮直元)を城から逃がしたと伝わります。自分が生きて帰ることはないと覚悟していたのでしょう。

② 3月29日朝 ― 岱崎出丸への突入と、一柳直末の戦死

29日の朝、秀次隊の先鋒・一柳直末の部隊が、城の南西に突き出た岱崎出丸へ突入しました。これが戦いの始まりです。出丸を守っていたのは間宮康俊の手勢わずか数百。しかし康俊は、出丸と三の丸の櫓の両方から鉄砲を浴びせる十字砲火で、押し寄せる直末の部隊を迎え撃ちました。

障子堀と土塁に足を止められた先鋒は、たちまち大きな損害を出します。部隊が乱れるなか、直末は自ら先頭に立って兵を励ましましたが、北条方の鉄砲に撃たれて戦死しました。享年45とされます。秀吉の古くからの側近で、美濃に城を持つ大名でもあった直末の死は、豊臣方に大きな衝撃を与えました。

③ 間宮康俊の最期 ― 白髪を墨で染めて

先鋒が崩れても、豊臣方は次々に新手を送りこみました。中村一氏の部隊が岱崎出丸に繰り返し攻めかかり、山内一豊の部隊もこれに続きます。数で圧倒された出丸はついに破られ、間宮康俊は討死しました。73歳だったと伝わります。

康俊は、白髪の首を敵に取られるのを恥とし、髪を墨で黒く染めて最後の戦いに臨んだという話が残っています。歳を取った老将と侮られることを嫌い、最後まで武士の誇りを守ろうとした姿として、いまも語り継がれています。出丸の一番乗りについては、中村一氏の家臣・渡辺勘兵衛(了)が自分だと名のっていますが、これは本人の申し立てによるもので、確かなことはわかっていません。

④ 西の丸の陥落 ― 家康の部隊が背後を崩す

岱崎出丸で激しい戦いが続くあいだ、北側からは家康の部隊が西の丸に攻めかかっていました。西の丸にも障子堀がめぐらされていましたが、守りの兵は少なく、やがて家康の部隊がここを落とします。西の丸を失ったことで、山中城の守りは一気に崩れました。出丸と本丸のあいだにいる北条方の兵は、横と後ろから攻められる形になったのです。

⑤ 三の丸・二の丸 ― 北条氏勝の脱出

岱崎出丸と西の丸を手に入れた豊臣方は、三の丸、二の丸へとなだれこみました。二の丸を守っていた北条氏勝は、もはやこれまでと自害しようとしましたが、弟たちや家臣に止められます。氏勝はわずかな供を連れて北の丸から城を抜け出し、自分の居城である相模の玉縄城(いまの神奈川県鎌倉市)へ逃れました。

⑥ 本丸の陥落 ― 松田康長の最期

最後まで本丸に残ったのは、城主の松田康長でした。康長は残った兵とともに本丸を守りましたが、四方から押し寄せる豊臣軍を支えきれず、討死します。こうして朝に始まった戦いは、同じ日のうちに終わりました。北条方の討死はおよそ2,000人ともいわれ、城兵の半数近くが命を落としたことになります。落城の時刻は、昼ごろとも夕方前ともいわれ、資料によって違いがあります。

なぜ山中城は半日で落ちたのか

北条家が最新の技術を注いだ山中城が、たった半日で落ちた理由は、大きく三つ考えられます。

  1. 圧倒的な兵力差:約20倍の兵が、損害をかえりみずに力攻めを続けた。障子堀で一つの部隊を止めても、次の部隊がすぐに押し寄せた
  2. 改修が間に合わなかった:大がかりな改修は天正15年ごろからで、工事が完全には終わっていなかったとする見方がある。急いで広げた曲輪どうしの連絡も悪かった
  3. 守りの兵が足りなかった:細長く広がった城を3,000〜4,000で守るには、兵が少なすぎた。西の丸が手薄だったことが、全体の崩壊につながった

秀次が手柄を急ぎ、損害を気にせずに無理な力攻めを命じたともいわれます。一柳直末をはじめ、豊臣方にも多くの犠牲が出たのはそのためでした。山中城の落城は、障子堀に代表される「土の城」の守りが、圧倒的な大軍の前では長くもたないことを示した戦いとして、城の歴史のうえでも語られています。このあと豊臣政権のもとでは、高い石垣を持つ城づくりが全国に広がっていきました。

山中城の戦いのその後

山中城を落とした秀次は、その日のうちに家康の部隊を鷹之巣城へ、翌日には井伊直政の部隊を足柄城へ向かわせ、箱根の北条方の城を次々に落としていきました。4月初めには豊臣軍の先鋒が小田原城に着き、秀吉は石垣山に城を築いて北条家を3か月にわたって囲みます。

玉縄城に逃げ帰った北条氏勝は、家康の家臣や、氏勝が師と仰いだ龍寶寺の住職の説得に応じ、4月21日に城を開きました。その後は下総方面の豊臣軍の道案内をつとめ、北条方の城の無血開城に力を尽くしています。開城後の玉縄城には、利休七哲に数えられる古田重然(織部)と瀬田正忠(掃部)が入って守りについています。氏勝は家康に仕えて生き残り、のちに下総の岩富に1万石を与えられました。

一方、一柳直末の戦死を聞いた秀吉は、「直末を失った悲しみで、関東を得る喜びも失われてしまった」と嘆き、3日ほどほとんど口をきかなかったと伝わります。直末の跡は弟の一柳直盛が継ぎ、一柳家は江戸時代も大名として続きました。

総大将の秀次は、この勝利で面目をほどこし、翌年には秀吉の跡を継いで関白となります。しかし5年後の文禄4年(1595)、謀反の疑いをかけられて切腹に追いこまれました(豊臣秀長の死と秀次事件)。山中城は、秀次が武将として最も輝いた場所だったのかもしれません。

『豊臣兄弟!』とのつながり ― 秀長のいない小田原征伐

大河ドラマ『豊臣兄弟!』の主人公・豊臣秀長は、小田原征伐に加わることができませんでした。天正18年の初めから病が重くなり、大和郡山にとどまっていたためです。かわりに秀長の甥にあたる秀次が、豊臣家の一門として大軍を率いました。秀長がいれば、山中城の攻め方は違っていたのでしょうか。損害をいとわない力攻めと、根白坂の戦いで力攻めを避けた秀長のやり方を比べてみると、豊臣家の次の世代が抱えていた危うさも見えてきます(根白坂の戦い)。

いまの山中城跡

山中城跡は昭和9年(1934)に国の史跡に指定され、昭和48年(1973)から三島市が発掘と整備を進めてきました。日本100名城にも選ばれています。土塁や堀は芝生で覆われ、障子堀や畝堀の形がはっきりわかるように整えられていて、「土の城」の姿をこれほど間近に見られる城はほかにあまりありません。とくに岱崎出丸の障子堀は、山中城を象徴する景色です。

城跡の三の丸跡には宗閑寺(そうかんじ)があり、戦いで亡くなった両軍の将兵を弔っています。境内には北条方の松田康長・間宮康俊と、豊臣方の一柳直末の墓が並んでいます。寺の名は、間宮康俊の法名「宗閑」にちなむといわれます。敵味方に分かれて戦った武将たちが、いまは同じ寺で静かに眠っているのです。

所在地静岡県三島市山中新田
アクセスJR三島駅から元箱根港行きの東海バスで約30分、「山中城跡」下車すぐ
見どころ岱崎出丸・西の丸の障子堀、西櫓、本丸跡、宗閑寺の三将の墓

まとめ

山中城の戦いは、天正18年3月29日、豊臣秀次の率いる約6万8,000の大軍が、北条方3,000〜4,000の守る箱根の山中城を半日で落とした、小田原征伐の緒戦です。障子堀で固めた北条流の「土の城」は、岱崎出丸で一柳直末を討ち取るなど激しく抵抗しましたが、西の丸を破られてからは一気に崩れ、城主の松田康長、老将の間宮康俊らが討死しました。この勝利で豊臣軍は箱根を越え、北条家は小田原城にこもったまま、最後の時を迎えることになります。

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