しまづ よしひろ
| 地域 | 九州 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 島津氏 |
| 大名家 | 島津氏 |
| 家紋 | 丸に十の字 |
| 主武器 | 大太刀・大槍 |
| 衣装・甲冑 | 漆黒重厚具足 |
| 武将タイプ | 勇猛・鬼神 |
島津義弘とは
島津義弘(しまづ よしひろ)は、薩摩・大隅を本拠とする島津氏の武将で、戦国屈指の猛将として名高い。少数の兵で大軍を打ち破る神がかった戦いぶりから、朝鮮の役では明・朝鮮軍に「鬼石曼子(グイシーマンズ、鬼島津)」と恐れられた。木崎原の戦いや泗川の戦い、そして関ヶ原の「島津の退き口」など、その武功は数々の伝説とともに語り継がれている。兄・義久を当主とする島津四兄弟の一人として、義弘は主に軍事の面で島津家を支え、九州統一の一歩手前まで勢力を広げた。
- 天文4年(1535年)、薩摩の島津貴久の次男として生まれる。兄・義久とともに島津家を率い、九州の大半に勢力を広げた
- 元亀3年(1572年)の木崎原の戦いで伊東氏を破る。朝鮮出兵では泗川の戦いで大軍を退け、「鬼石曼子」と恐れられた
- 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に加わり、敵中を突破して薩摩へ帰った(島津の退き口)。元和5年(1619年)に没した
豊臣秀吉に降った後も、朝鮮出兵で凄まじい武名を轟かせ、関ヶ原では敵中を突破する前代未聞の撤退戦を演じて生還した。その勇猛さと、家臣を深く思う情の厚さから、薩摩の人々に「維新(いしん)さま」と敬愛され続けた名将である。本稿では、その鬼神のごとき生涯をたどる。
島津四兄弟
義弘は天文4年(1535年)、薩摩の島津貴久の次男として生まれた。島津氏は鎌倉時代以来の名門で、南九州に深く根を張っていた。義弘には、長兄で当主となる義久、弟の歳久・家久がおり、この「島津四兄弟」がそれぞれの才を発揮して島津家の飛躍を支えた。兄弟はそれぞれに個性豊かで、長兄・義久は当主として全体を統率し、義弘は軍事の中核を担い、歳久は知略に、末弟・家久は用兵の妙に長けたと評される。
「義久は徳をもって衆を率い、義弘は武勇に秀で……」と、四兄弟の資質はそれぞれに際立っていた。優れた兄弟が結束して家を支えたことが、島津氏が九州統一に迫る原動力となったのである。
木崎原の戦い──「九州の桶狭間」
義弘の武名を天下に知らしめたのが、元亀3年(1572年)の木崎原(きざきばる)の戦いである。日向の伊東氏が三千の大軍で島津領に攻め込んだのに対し、義弘が率いる兵はわずか三百ほどであった。圧倒的な兵力差にもかかわらず、義弘は巧みな伏兵戦術を用いてこれを迎え撃った。義弘は、少数の兵をおとりに使って敵をおびき寄せ、伏せておいた部隊で挟撃するという「釣り野伏せ(つりのぶせ)」と呼ばれる島津家伝統の戦法を駆使した。
この戦いで義弘は伊東軍を壊滅させ、少数が大軍を破る鮮やかな勝利を収めた。木崎原の戦いは「九州の桶狭間」とも称され、義弘の武将としての非凡さを証明した。この勝利を機に、島津氏は日向方面への進出を本格化させていく。
九州統一への快進撃
木崎原の勝利の後、島津四兄弟は破竹の勢いで九州を席巻していった。天正6年(1578年)の耳川の戦いでは、九州北部の雄・大友宗麟の大軍を「釣り野伏せ」によって打ち破り、大友氏を衰退へと追い込んだ。島津の武名は、九州全土に轟いた。天正12年(1584年)の沖田畷(おきたなわて)の戦いでは、末弟・家久の巧みな用兵によって、肥前の龍造寺隆信を討ち取る大勝利を収めた。大友・龍造寺という九州の二大勢力を相次いで撃破した島津氏は、九州のほぼ全域を支配下に置き、統一を目前とするまでに至った。
義弘は、その軍事的躍進の中心にあって、島津の快進撃を牽引したのである。島津軍の強さの秘密は、「釣り野伏せ」に代表される高度な集団戦術と、郷士(ごうし)と呼ばれる半農半兵の武士たちの高い士気にあった。命を惜しまず主家のために戦う薩摩隼人の勇猛さは、他国の軍勢を圧倒した。義弘は、この精強な島津軍を率いる名将として、九州にその名を轟かせていた。
島津の代名詞「釣り野伏せ」
島津軍の強さを象徴するのが、「釣り野伏せ」と呼ばれる独特の戦法である。これは、あらかじめ左右の翼に伏兵を配しておき、中央のおとり部隊がわざと敗走を装って敵をおびき寄せ、深追いしてきた敵を三方から包囲して殲滅するというものである。単純に見えて、実行には各部隊の緊密な連携と、おとりとなって危険に身をさらす兵の高い規律・士気が要求される、高度な集団戦術であった。
木崎原、耳川、沖田畷といった島津の主要な勝利は、いずれもこの釣り野伏せによってもたらされた。義弘は、この戦法を実戦で見事に使いこなし、幾度も寡兵で大軍を打ち破った。敵を計算どおりに動かして罠にはめる釣り野伏せは、島津の将兵の結束の固さがあって初めて成立するものであり、島津軍団の強さの本質を映し出している。
豊臣秀吉の九州征伐と降伏
九州統一を目前にした島津氏の前に立ちはだかったのが、天下統一を進める豊臣秀吉であった。天正14年(1586年)から翌年にかけて、秀吉は二十万を超える大軍を九州へ差し向けた。島津軍は各地で奮戦したが、圧倒的な物量の前には抗いきれなかった。天正15年(1587年)、島津義久は秀吉に降伏した。義弘もこれに従い、島津氏は薩摩・大隅・日向の一部を安堵されて豊臣政権下の大名となった。九州統一の夢は絶たれたものの、名門島津氏は家名を保つことができた。以後、義弘は豊臣政権の一員として、その軍役を務めることになる。
薩摩隼人と兄弟の結束
島津軍の精強さを支えたのは、「薩摩隼人(はやと)」と称される南九州の武士たちの勇猛さであった。半農半兵の郷士たちは、日頃から武芸を鍛え、主家への忠義を第一とする気風のなかで育った。命を惜しまず戦う彼らの気質は、他国の兵とは一線を画するものであり、島津軍を無類の強兵たらしめた。後の薩摩藩で発展する「郷中(ごじゅう)教育」の源流も、こうした薩摩の武士の気風にある。
そして島津の強さのもう一つの柱が、四兄弟の固い結束であった。当主・義久を中心に、義弘・歳久・家久がそれぞれの持ち場で力を尽くし、私心なく家のために働いた。兄弟が争って家を傾ける例の多い戦国にあって、島津兄弟の団結は際立っていた。この結束があったからこそ、島津氏は南九州の一勢力から、九州統一に迫る大勢力へと飛躍することができたのである。
朝鮮出兵と「鬼石曼子」
豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)において、義弘はその武勇を遺憾なく発揮した。異国の地での過酷な戦いのなかで、義弘率いる島津軍は各地で奮戦し、明・朝鮮軍を大いに苦しめた。とりわけ慶長3年(1598年)の泗川(サチョン)の戦いは、義弘の武名を不滅のものとした。数万ともいわれる明の大軍に対し、義弘が率いる島津軍はわずか七千ほど。しかし義弘は、寡兵をものともせず巧みな戦術で明軍を迎え撃ち、これに壊滅的な打撃を与えたと伝わる。
この戦いにおける島津軍の凄まじさは敵をも震え上がらせ、明・朝鮮の人々は義弘を「鬼石曼子(鬼島津)」と呼んで恐れた。異国での劣勢を、少数精鋭の武勇で覆した泗川の戦いは、島津軍の強さを国際的に知らしめる結果となった。義弘の勇名は、海を越えて轟いたのである。過酷な遠征を戦い抜いた義弘と島津の将兵は、疲弊しながらも、その武名だけは高々と掲げて帰国することになる。
関ヶ原の戦いと「島津の退き口」
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、義弘は西軍に属した。しかし、様々な行き違いから島津軍は積極的に戦闘に加わることなく、わずか千数百の兵で戦場に孤立していた。そして西軍の敗色が濃厚となったとき、義弘は前代未聞の決断を下す。退路を断たれた義弘は、退却の常道である背後ではなく、あえて敵の徳川家康本隊が布陣する正面へと突撃し、敵中を突破して薩摩へ帰還するという捨て身の作戦に打って出た。
世に言う「島津の退き口(のきぐち)」である。義弘の軍は、追撃してくる敵に対して、殿(しんがり)の兵が次々と踏みとどまって死ぬまで戦い、本隊の退却の時間を稼ぐ「捨て奸(すてがまり)」という壮絶な戦法を用いた。この決死の敵中突破によって、多くの将兵が犠牲となり、義弘の甥・島津豊久も身代わりとなって討死した。しかし義弘自身は、わずかな供とともに包囲を脱し、九死に一生を得て薩摩へ帰り着いた。
数万の敵のただ中を突き破って生還したこの撤退戦は、日本戦史上まれに見る壮挙として、後世まで語り継がれることになる。義弘の武将としての凄みが、最も鮮烈に表れた一戦であった。
甥・島津豊久の犠牲
関ヶ原の「島津の退き口」を語るうえで欠かせないのが、義弘の甥・島津豊久の壮絶な最期である。敵中突破の際、豊久は追撃してくる徳川方の軍勢を食い止めるべく、叔父・義弘の身代わりとなって奮戦した。豊久は義弘を先に落ち延びさせ、自らは殿を務めて敵に立ち向かい、若くして討死したと伝わる。豊久だけでなく、多くの家臣が「捨て奸」の戦法によって次々と踏みとどまり、命を捨てて義弘の退路を守った。彼らの犠牲があったからこそ、義弘は数万の敵中を突破して生還できたのである。
主君を生かすために一族や家臣が喜んで命を投げ出す——この凄絶な忠義の物語は、島津家の結束の固さと、義弘という将がいかに慕われていたかを、何よりも雄弁に物語っている。関ヶ原で島津がなぜ積極的に動かなかったのかについては、諸説がある。石田三成との連携がうまくいかなかったとも、夜襲を進言したが容れられなかったとも伝わる。いずれにせよ、戦機を逃したまま西軍が崩れていくのを見た義弘の胸中には、無念の思いがあったであろう。だからこそ、最後に選んだのが座して降るのではなく、敵中を突き破って薩摩へ生きて帰るという、島津の意地を示す道であった。
この「島津の退き口」は、単なる敗走ではなく、絶望的な状況でなお主君と家名を守り抜こうとした、誇り高き撤退戦であった。武士にとって、いかに生き、いかに死ぬかが問われる戦国にあって、義弘と島津の将兵が見せた最後の戦いぶりは、後世の武士たちの心をも深く打った。敗者でありながら、これほど鮮烈に記憶される撤退戦は、他に類を見ない。
本領安堵と薩摩藩の礎
関ヶ原で西軍についたにもかかわらず、島津氏は改易も減封もされず、本領をそのまま安堵された。これは、西軍に属した大名のなかでは異例の処遇であった。島津の武威を恐れた徳川家康が、遠国の島津を武力で討つことの困難さを考慮し、和睦の道を選んだためとされる。この本領安堵によって、島津氏は薩摩・大隅を治める大大名として存続し、これが後の薩摩藩の礎となった。義弘が命がけの敵中突破によって守り抜いた島津の家名は、江戸時代を通じて薩摩藩として栄え、やがて幕末には明治維新の原動力となる。義弘の武勇と気概が、島津家の未来を切り開いたのである。
降伏の交渉と島津の意地
関ヶ原の後、義弘の主戦論に対し、当主・義久を中心とする島津家中は、徳川家康との粘り強い交渉によって家の存続を図った。島津は決して屈服したわけではなく、いつでも徹底抗戦する構えを見せながら、有利な条件を引き出そうとした。遠く薩摩に本拠を構え、精強な軍を擁する島津を力で屈服させることの難しさを、家康もよく理解していた。二年近くに及ぶ交渉の末、島津は本領を安堵された。
西軍について敗れながら領地を減らされなかったのは、島津の武威と、粘り強い外交の勝利であった。義弘の関ヶ原での凄まじい戦いぶりが、島津を軽んじられない存在として天下に印象づけたことも、この破格の処遇を引き出す一因となった。武と交渉の両面で、島津は最後まで意地を貫いたのである。
人物像と数々の逸話
義弘は、鬼神のごとき猛将でありながら、家臣を深く思いやる情の厚い人物であった。将兵とともに寝食を共にし、労苦を分かち合ったと伝わる。だからこそ、家臣たちは義弘のために命を惜しまず戦った。関ヶ原の「捨て奸」で、家臣が次々と義弘の身代わりとなって散っていったのも、この主従の固い絆あってのことである。義弘はまた、朝鮮から陶工を連れ帰り、薩摩焼の発展に寄与するなど、文化・産業の振興にも意を用いた。
武勇一辺倒ではない、こうした一面も義弘の器の大きさを物語る。老いてなお矍鑠(かくしゃく)として、晩年は薩摩の加治木に隠居し、後進の指導にあたった。元和5年(1619年)、義弘は八十五歳の長寿を全うして世を去った。当時としては驚異的な長命であった。
義弘ゆかりの地と「妙円寺詣り」
義弘が晩年を過ごした鹿児島県の加治木や、島津氏の本拠であった鹿児島には、今も義弘ゆかりの地が数多く残る。とりわけ、関ヶ原の退き口で散った将兵の菩提を弔う「妙円寺詣り」は、鹿児島三大行事の一つとして今日まで続いている。旧暦九月十四日にちなみ、鎧兜に身を包んだ人々が義弘の菩提寺へと歩みを進めるこの行事は、義弘と薩摩武士の絆を今に伝える。
数百年を経てなお、これほど地域の人々に慕われ、その武功が語り継がれている武将は多くない。義弘が家臣や領民に注いだ深い情愛が、時を超えた敬慕となって今も生き続けているのである。「維新さま」と親しまれる義弘の記憶は、薩摩の誇りとして、これからも受け継がれていくだろう。
「戦国最強」の呼び声
島津義弘は、しばしば「戦国最強の武将」の一人に数えられる。木崎原ではわずか三百で三千を破り、泗川では七千で数万の明軍を撃退し、関ヶ原では敵中を突破して生還した。いずれも常識では考えられない戦果であり、その武勇は伝説の域に達している。数の不利を覆す義弘の戦いぶりは、まさに鬼神のごとしと恐れられた。しかし義弘の真の強さは、個人の武勇だけにあったのではない。命を捨てて主君に従う家臣たち、それを生み出す深い信頼関係、そして「釣り野伏せ」に象徴される高度な組織戦術——これらが一体となって、島津軍の無類の強さを形づくっていた。
義弘は、兵の心を掌握し、その力を最大限に引き出す名将だったのである。九州統一の夢は豊臣秀吉の前に絶たれ、天下取りの舞台に立つことはなかった。それでも義弘は、その武勇と気概によって島津の家名を守り抜き、後の薩摩藩、ひいては幕末の維新へとつながる礎を残した。八十五年の生涯を武と忠義に捧げた鬼島津・義弘の名は、これからも戦国最強の武将の一人として、語り継がれていくに違いない。
後世の評価
島津義弘は、その神話的な武功と、家臣を思う情の深さから、薩摩の人々に「維新さま」と親しみを込めて呼ばれ、深く敬愛され続けてきた。関ヶ原の退き口で散った将兵を偲ぶ「妙円寺詣り」は、鹿児島で今も続く伝統行事となっており、義弘への敬慕の念がいかに篤いかを物語っている。少数で大軍を破り、異国に武名を轟かせ、絶望的な状況から生還した義弘の生涯は、まさに戦国武将の武勇の極致といえる。
その壮絶な戦いぶりは、小説やドラマ、ゲームで繰り返し描かれ、多くのファンを魅了し続けている。当データベースでも、兄・島津義久や弟・島津家久、そして義弘が戦った大友・龍造寺の武将や、九州を平定した豊臣秀吉など、ゆかりの人物のページを収録している。彼らとの関わりをたどれば、鬼島津・義弘が生きた時代が、いっそう鮮やかに見えてくるだろう。
島津義弘をめぐる人物
島津義弘ゆかりの地
- 精矛神社(鹿児島県姶良市加治木):晩年を過ごした加治木にある、義弘を祀る神社
- 福昌寺跡(鹿児島市):島津家の菩提寺の跡。歴代当主の墓が並ぶ
- 徳重神社(鹿児島県日置市):義弘を祀る神社。関ヶ原をしのぶ「妙円寺詣り」が今も続く
- 島津義弘陣跡(岐阜県関ケ原町):関ヶ原の戦いで島津勢が陣を構えた場所
この人物をもっと知る本
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- 【新書】桐野作人『関ヶ原 島津退き口』(ワニブックスPLUS新書):敵中突破の経緯を史料からたどる


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