麻生鎮里 | 花尾城主となり大友方についた筑前麻生氏の一族

あそう しげさと

地域九州
所属勢力・属性筑前国人(大内氏→陶氏→大友氏)
大名家筑前国人
家紋―
主武器太刀
衣装・甲冑実戦具足
武将タイプ地方割拠

麻生鎮里は筑前の国人麻生氏の一族で、父は麻生家信とされる。大寧寺の変の後に花尾城(北九州市八幡西区)の城主となり、永禄2年(1559)から大友宗麟に従ったという。永禄10年(1567)、一族の麻生隆実に敗れて薩摩の島津氏のもとへ逃れたとされる。

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筑前の麻生氏

麻生氏は宇都宮氏の流れをくむとされる筑前の国人である。遠賀郡の山鹿城や花尾城を拠点とし、室町時代から戦国時代には周防の大内氏に従った。一族の中では家督をめぐる争いがたびたび起きた。文明10年(1478)には、麻生家信と弘家の家督争いに大内政弘が介入している。

鎮里は麻生家信の次男とされる。父の代から、山鹿城主の麻生隆実と対立していたという。

花尾城主として

天文20年(1551)の大寧寺の変で、大内義隆は重臣陶晴賢に討たれた。花尾城は義隆の側近相良武任が領していたが、武任もこのとき殺された。その後、鎮里が花尾城主となったとされる。

陶晴賢が毛利元就に敗れると、北九州では大友氏と毛利氏の争いが激しくなった。鎮里は永禄2年(1559)から大友宗麟に従い、毛利方の国人と戦ったとされる。

没落と最期

永禄10年(1567)、宗像氏貞の支援を得た麻生隆実が鎮里を攻めた。敗れた鎮里は薩摩の島津氏のもとへ逃れたとされる。麻生氏はその後、隆実の系統が主導した。天正15年(1587)の豊臣秀吉による九州平定の後、麻生氏は筑後へ移され、山鹿城・花尾城は廃城となった。

鎮里の最期ははっきりしない。九州平定の際に二人の子を人質に出したが、再び島津方に走ったため子が殺されたという話がある。岩屋城の戦いで戦死したとする説もあり、定まっていない。

ゆかりの地

  • 花尾城跡(福岡県北九州市八幡西区):鎮里が城主となったとされる麻生氏の山城

参考にした資料

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