大友宗麟 | 南蛮貿易を推進した九州のキリシタン大名

おおとも そうりん

地域九州
所属勢力・属性大友氏
大名家大友
家紋抱き杏葉
主武器太刀・南蛮渡来砲
衣装・甲冑南蛮胴具足
武将タイプキリシタン・先進

大友宗麟(義鎮)は豊後国(現在の大分県)の守護大名・大友義鑑の嫡男として生まれた。家督相続をめぐる二階崩れの変を経て当主となると、豊後・筑後・肥後など北部九州の広大な領国を治める大大名として全盛期を築き上げた。

南蛮貿易にいち早く着目し、豊後府内(現在の大分市)を貿易港として整備。ポルトガル人宣教師フランシスコ・ザビエルとも面会し、キリスト教の布教を積極的に容認した。後年自らも洗礼を受けてドン・フランシスコの霊名を得るなど、九州随一の南蛮文化の窓口としての地位を確立した。

軍事面では国崩しと呼ばれた南蛮渡来の大砲を用いるなど、当時最先端の武器・技術をいち早く取り入れた先進的な大名であった。しかし1578年、日向へ大軍を率いて侵攻した耳川の戦いにおいて島津氏に大敗を喫し、多くの重臣を失うという致命的な打撃を受ける。

この敗戦を境に大友家の勢力は急速に衰え、家臣団の離反や国人衆の反乱が相次いだ。豊臣秀吉に助けを求めて九州征伐を要請し、辛うじて島津氏の侵攻から本領を守り抜くが、大友家の最盛期は既に過去のものとなっていた。

宗麟自身は1587年に病没するが、豊後一国のみを保つに留まった跡継ぎ・義統も後に改易され、名門大友氏は戦国大名として滅亡した。それでも南蛮貿易とキリスト教文化を九州にいち早く根付かせた先進性は高く評価され、大分の地には今なお宗麟の統治を偲ぶ史跡が数多く残されている。

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