毛利勝永 | 大坂夏の陣で徳川の諸将を次々に破った「もう一人の主役」。土佐を脱出して秀頼のもとへ

毛利勝永のイラスト(イメージ)

もうり かつなが

地域近畿(大坂)・九州(豊前小倉)
所属勢力・属性豊臣氏(大坂城の五人衆)
大名家毛利家(森家)
家紋不詳
主武器槍
衣装・甲冑具足・陣羽織
武将タイプ猛将

毛利勝永(もうり かつなが)は、豊前小倉城主・毛利勝信の子で、大坂の陣で豊臣方として戦った武将である。吉政とも名のった。天正6年(1578年)ごろに生まれ、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で、秀頼とともに亡くなった。中国地方の毛利家とは別の家である。夏の陣の天王寺・岡山の戦いでは、徳川方の諸将を次々に破った。

3行でわかる毛利勝永
  • 父・勝信は秀吉の古くからの家臣で、豊前小倉城主だった
  • 関ヶ原で西軍について改易され、土佐の山内家にあずけられた
  • 大坂城に入り、夏の陣では本多忠朝らを破る大活躍を見せた
目次

秀吉の家臣の子

勝永の父・毛利勝信(森吉成)は、尾張時代からの秀吉の家臣で、九州平定のあと豊前小倉の城主となった。勝信は秀吉から「毛利」の名字を与えられたといわれる。

勝永も若いころから秀吉に仕え、朝鮮出兵にも加わった。

関ヶ原と土佐

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、勝永は西軍に属し、伏見城の攻撃などに加わった。戦後、毛利家は改易され、勝永父子は土佐の山内一豊にあずけられた。

慶長19年(1614年)、豊臣家と徳川家の戦いが近づくと、勝永は土佐を抜け出して大坂城に入った。妻が家のことは気にせず豊臣家のために戦うようすすめたという話が伝わる。

天王寺・岡山の戦い

大坂城では、真田幸村・後藤又兵衛・長宗我部盛親・明石全登と並ぶ「五人衆」のひとりとされた。

慶長20年(1615年)5月7日の天王寺・岡山の戦いで、勝永は天王寺口の先頭に立ち、本多忠朝・小笠原秀政らを討ち取るなど徳川方の部隊を次々に破った。真田隊が壊滅したあとも退却する味方を守り、大坂城に戻った。

翌日、秀頼の最期に付き従い、自害した。江戸時代の随筆『翁草』には、「真田のことばかり言って毛利を言わないのは惜しい」という意味の言葉が残されている。

毛利勝永をめぐる人物

  • 主君:豊臣秀吉/豊臣秀頼
  • 父:毛利勝信
  • 大坂城の五人衆:真田幸村/後藤又兵衛/長宗我部盛親/明石全登
  • 夏の陣で討った相手:本多忠朝/小笠原秀政

ゆかりの地

  • 天王寺・茶臼山(大阪市天王寺区):天王寺・岡山の戦いの舞台
  • 小倉城(北九州市):父・勝信が城主だった城
  • 大阪城(大阪市中央区):秀頼とともに最期を迎えた城
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