まみや やすとし
| 地域 | 関東(武蔵・相模) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 北条家の家臣。玉縄北条家に属する玉縄衆 |
| 大名家 | 北条家 |
| 家紋 | 不明 |
| 主武器 | 槍・鉄砲隊の指揮 |
| 衣装・甲冑 | 使いこんだ当世具足 |
| 武将タイプ | 歴戦の老将・籠城の名手 |
間宮康俊(まみや やすとし)は、北条家に仕えた武将で、玉縄城の北条家に属する「玉縄衆」の一人です。北条氏綱の時代から北条家五代のうち四代に仕えた老将で、天正18年(1590)の山中城の戦いでは、わずか200ほどの兵で城の最前線・岱崎出丸(だいさきでまる)を守りました。豊臣方の先鋒・一柳直末を鉄砲で討ち取る奮戦を見せたのち、73歳で討死しています。白髪の首を敵に渡すのを恥じ、髪を墨で黒く染めて戦ったという話でも知られる人物です。
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間宮康俊の早見表
| 生没年 | 永正15年(1518)〜天正18年(1590)3月29日。享年73 |
|---|---|
| 父 | 間宮信元 |
| 居城 | 武蔵の笹下城(いまの横浜市港南区)と伝わる |
| 所属 | 玉縄衆(玉縄城主の北条綱成・氏繁・氏舜・氏勝に仕える) |
| 知行 | 永禄2年(1559)の『小田原衆所領役帳』で698貫文 |
| 役目 | 鶴岡八幡宮の造営奉行、伊豆衆の水軍の管理、江戸湾の警固 |
| 最期 | 山中城の岱崎出丸で討死 |
| 法名 | 宗閑 |
北条家の四代に仕えた玉縄衆
康俊が生まれた永正15年(1518)は、北条早雲(伊勢宗瑞)がまだ生きていたころです。康俊は武蔵の笹下(ささげ)を本拠とした間宮家の当主で、北条家の一門・玉縄北条家の配下に組みこまれた「玉縄衆」として働きました。仕えた玉縄城主は、「地黄八幡」の旗で知られた猛将・北条綱成、その子の氏繁、孫の氏舜・氏勝と、三代四人にのぼります。
若いころの康俊は、戦場だけでなく普請の場でも力を発揮しました。天文5年(1536)、二代目の北条氏綱が鎌倉の鶴岡八幡宮の造営を始めると、康俊はその奉行の一人をつとめています。北条家が関東の武士たちの信仰の中心である八幡宮を建て直したのは、自分たちが関東の正しい支配者であることを示すためでした。康俊は若くして、その大事業を任されていたのです。
江戸湾を見張る ― 水軍と海の守り
房総半島の里見家との関係が悪くなると、康俊は伊豆衆の水軍を取りまとめ、江戸湾の沿岸を見張る役目も担いました。笹下は江戸湾にほど近く、海の向こうの里見家の動きにすぐ対応できる場所です。陸の戦いと海の守りの両方を知る武将として、康俊は北条家の東の守りを長く支えました。
山中城へ ― 73歳の出陣
天正18年(1590)、豊臣秀吉が北条家を討つために大軍を差し向けると、康俊は主君の北条氏勝に従い、援軍として伊豆の山中城に入りました。山中城は箱根の西、東海道をおさえる北条家の西の玄関口で、城主は松田康長でした。このとき康俊は73歳。すでに隠居していてもおかしくない年齢でしたが、北条家の存亡をかけた戦いに、自ら最前線を引き受けます。
戦いを前に、康俊は主君の氏勝と、まだ若い孫の彦次郎(のちの間宮直元)を城から逃がす手はずを整えたと伝わります。家と主君の血筋を残し、自分は城に残って戦う。老将らしい覚悟の決め方でした。
岱崎出丸の戦い ― 一柳直末を討つ
3月29日の朝、総大将・豊臣秀次の率いる大軍が山中城に攻めかかりました。康俊が守る岱崎出丸は、城の南西に長く突き出した曲輪で、豊臣軍が真っ先にぶつかる場所です。率いる兵は200ほど。それでも康俊は、障子堀で足を止めた敵を、出丸と三の丸の櫓の両方から鉄砲で挟み撃ちにして迎え撃ちました。
この十字砲火に、豊臣方の先鋒・一柳直末の部隊は大きく崩れ、自ら先頭に立った直末は鉄砲に撃たれて戦死しました。秀吉が「関東を得た喜びも失われた」と嘆いたほどの、豊臣方にとって手痛い損害です。しかし、中村一氏・山内一豊らの部隊が次々に新手を送りこむと、200の兵ではもはや支えきれません。岱崎出丸は破られ、康俊はここで討死しました。
墨で染めた白髪 ― 老将の誇り
康俊には、最後の戦いの前に白髪を墨で黒く染めたという話が残っています。白髪の老人の首を取られたと笑われるのを恥とし、若い武者のような姿で敵の中に突き進んだというのです。この話は、平家物語に出てくる斎藤実盛が、老いを隠すために白髪を黒く染めて戦ったという故事とよく似ています。康俊自身がその故事を意識していたのか、のちに康俊の最期が実盛になぞらえて語られるようになったのかはわかりませんが、北条家の最後の戦いを飾る老将の姿として、今も語り継がれています。
間宮家のその後
康俊には康次・康信・信高・元重など多くの息子がいました。山中城から逃がされた孫の彦次郎は、のちに間宮直元として徳川家康に仕え、旗本として家を残しています。また、康俊の娘の一人は家康に仕えたと伝わります。北条家は滅びましたが、康俊の血筋は徳川の世に受け継がれていきました。
江戸時代後期に樺太を探検した間宮林蔵は、北条家に仕えた間宮家の子孫だと伝えられることがあります。ただし、これを確かめる史料はなく、伝承の域を出ません。
山中城跡の三の丸跡に建つ宗閑寺(そうかんじ)には、康俊の墓が、城主の松田康長、敵将の一柳直末の墓と並んで残っています。寺の名は康俊の法名「宗閑」にちなむといわれます。
間宮康俊をめぐる人物
ゆかりの地
- 山中城跡・岱崎出丸(静岡県三島市):康俊が最後に守った曲輪。障子堀が残る
- 宗閑寺(静岡県三島市):山中城の三の丸跡に建つ寺。康俊の墓がある
- 笹下城跡(横浜市港南区):間宮家の居城と伝わる城跡
- 鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市):若き康俊が造営奉行をつとめた八幡宮




















































