江戸幕府の初め、徳川家康・秀忠・家光の3代に仕え、「黒衣の宰相」と呼ばれた僧がいました。天台宗の南光坊天海(なんこうぼう てんかい)です。この天海には、昔から不思議なうわさがつきまとってきました。「天海の正体は、本能寺の変のあと山崎の戦いで死んだはずの明智光秀ではないか」というものです。この記事では、光秀生存説(天海=光秀説)が生まれた理由と、根拠とされるもの、それに対する反論を一つずつ整理します。あわせて、天海と並んで家康を支えた、もう一人の「黒衣の宰相」以心崇伝との違いも紹介します。
天海と明智光秀が同じ人物だったことを示す確かな史料はありません。研究者のあいだでは、天海=光秀説は後世に生まれた俗説と考えられています。
説が生まれたのは、天海の前半生の記録が少なく、出自がはっきりしないためです。日光の「明智平」という地名や、比叡山に残る「願主光秀」と刻まれた石灯籠などが根拠に挙げられますが、どれも別の説明がつくものばかりです。一方で、光秀の死は当時の日記などに記録されており、年齢の面でも同じ人物とみるのは難しいとされます。
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天海とはどんな人物か
天海は、陸奥国会津(福島県)の生まれとされる天台宗の僧です。生まれた年は天文5年(1536)とする説が有力ですが、はっきりしません。若いころは「随風」と名のり、比叡山や三井寺、奈良の寺々で学んだと伝えられます。
慶長12年(1607)ごろ、比叡山東塔の南光坊に住んで「南光坊天海」と呼ばれるようになり、慶長17年(1612)ごろから家康に重く用いられました。武蔵川越の喜多院の住職、日光山の管理をまかされ、家康が亡くなると、家康を「東照大権現」としてまつることに力を尽くします。寛永2年(1625)ごろには江戸の上野に寛永寺を開き、寛永20年(1643)に亡くなりました。108歳だったともいわれます。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 天文5年(1536)ごろ | 陸奥国会津に生まれたとされる |
| 若いころ | 「随風」と名のり、比叡山などで学ぶ |
| 慶長12年(1607)ごろ | 比叡山の南光坊に住み、南光坊天海と呼ばれる |
| 慶長17年(1612)ごろ | 家康に重く用いられ、川越の喜多院の住職となる |
| 元和2年(1616) | 家康が亡くなる。「東照大権現」としてまつることを主張 |
| 元和3年(1617) | 家康の遺骸を久能山から日光山へ移す |
| 寛永2年(1625)ごろ | 江戸上野に寛永寺を開く |
| 寛永20年(1643) | 亡くなる。108歳ともいわれる |
| 慶安元年(1648) | 朝廷から「慈眼大師」の名がおくられる |
このように、天海の後半生はよくわかっています。ところが、60代ごろまでの前半生については、確かな記録がほとんど残っていません。この「空白」が、天海=光秀説の出発点になりました。
明智光秀の最期 ― 史実ではどう伝わっているか
天正10年(1582)6月2日、明智光秀は本能寺で主君の織田信長を討ちました。しかしそのわずか11日後の6月13日、中国地方から引き返してきた羽柴秀吉と山崎で戦って敗れます。光秀は近江の坂本城へ逃れる途中、山城の小栗栖(京都市伏見区)で落ち武者狩りにあい、命を落としたと伝えられます。光秀の重臣だった斎藤利三も捕らえられ、処刑されました。
光秀の死と、その首がさらされたことは、当時の公家や僧の日記にも記されています。光秀の生年には享禄元年(1528)説と永正13年(1516)説があり、亡くなったときの年齢は55歳とも67歳ともいわれます。
天海=光秀説の根拠とされるもの
天海が光秀だったとする説では、次のようなことが根拠に挙げられてきました。それぞれに、反論もあわせて紹介します。
| 根拠 | 内容 | 反論 |
|---|---|---|
| ① 前半生の空白 | 天海の若いころの記録がほとんどない。光秀が死んだとされる時期と、天海が姿を現す時期が重ならない | 記録が少ないのは天海に限らない。当時の僧の多くは、高い地位につく前の記録がほとんど残っていない |
| ② 日光の「明智平」 | 日光のいろは坂の上にある「明智平」は、天海が「明智の名を残すため」に名づけたと伝わる | 命名の話は言い伝えで、それを示す史料はない |
| ③ 「願主光秀」の石灯籠 | 比叡山の松禅院に「慶長二十年二月十七日 奉寄進願主光秀」と刻まれた石灯籠がある。慶長20年(1615)は光秀の死から33年後 | 「光秀」という名の別人が寄進した可能性がある。名前だけで光秀本人とは決められない |
| ④ 春日局との結びつき | 3代将軍家光の乳母の春日局は、光秀の重臣・斎藤利三の娘。光秀ゆかりの者が将軍家の中枢にいたことが、天海とのつながりを思わせる | 春日局が乳母に選ばれたのは、公募に応じたためなどと伝えられ、天海の働きかけを示す史料はない |
| ⑤ 将軍の名前 | 2代「秀忠」、3代「家光」の名をあわせると「光秀」の字がそろう | 秀忠の「秀」は、豊臣秀吉から一字をもらったもの(偏諱)とみられ、光秀とは関係がない |
| ⑥ 日光東照宮の紋 | 日光東照宮の建物に、明智家の家紋「桔梗」が描かれているという | 東照宮に描かれた紋は桔梗ではなく、織田家の木瓜紋だとされる |
| ⑦ 坂本の慈眼堂 | 天海の廟所の一つ、慈眼堂は近江の坂本にある。坂本は光秀が城を築いて治めた土地 | 坂本は比叡山のふもとで、天台宗の僧である天海の廟があっても不思議はない |
同じ人物とみるのが難しい理由
一方で、天海と光秀を同じ人物とみるには、大きな壁がいくつもあります。
- 年齢が合わない:天海が天文5年(1536)生まれなら、光秀より8歳〜20歳ほど年下になります。逆に光秀が天海だったとすると、寛永20年(1643)に亡くなるまで、115歳から127歳ほど生きたことになってしまいます。
- 光秀の死は記録に残っている:光秀が討たれたことと、その首がさらされたことは、当時の日記などに記されています。多くの人の目にふれた出来事でした。
- 天海の経歴も伝えられている:天海の伝記には、会津に生まれ、比叡山などで学んだという経歴が記されています。後の時代にまとめられたものではありますが、光秀の経歴とは重なりません。
- 説が広まったのは後の時代:天海=光秀説が広く語られるようになったのは、天海の死からずっと後のことです。同じ時代の人が、天海を光秀だと書き残した史料は見つかっていません。
なぜこの説は人気があるのか
それでも天海=光秀説が語り継がれてきたのは、物語として魅力があるからでしょう。信長を討った「裏切り者」が、名前を変えて生き延び、やがて徳川の天下を陰で支える――。歴史の勝者と敗者が入れかわるような筋書きは、多くの人の想像をかきたてます。
また、天海が開いた日光や上野の寺、家康を神としてまつる仕組みなど、天海の仕事は大きく、謎めいたところがありました。前半生がわからない人物が、晩年に将軍の相談役として現れたことも、「実は大物だったのでは」という想像を生みやすかったと考えられます。信長に焼き討ちされた比叡山で学んだ僧だったことも、信長を討った光秀と結びつけられる一因になったのかもしれません(比叡山焼き討ちをわかりやすく解説)。
もう一人の「黒衣の宰相」以心崇伝
家康のそばには、天海と並んでもう一人、「黒衣の宰相」と呼ばれた僧がいました。臨済宗の以心崇伝(金地院崇伝)です。崇伝は永禄12年(1569)、室町幕府に仕えた名門・一色家に生まれ、京都の南禅寺の住職となりました。慶長13年(1608)に家康に招かれてからは、外国との外交文書や、寺社に関する政治を担当します。武家諸法度や禁中並公家諸法度などの起草にかかわり、方広寺の鐘の銘文をめぐる事件にも関わったことで知られています(方広寺の大仏)。
天海と崇伝はどちらも僧の身で家康の相談役をつとめ、ときに「黒衣の宰相」と呼ばれます。名前の響きや立場が似ているため、混同されることもありますが、二人の経歴や役割は大きく違います。
| 天海 | 以心崇伝 | |
|---|---|---|
| 宗派 | 天台宗 | 臨済宗 |
| 生没年 | 天文5年(1536)ごろ〜寛永20年(1643) | 永禄12年(1569)〜寛永10年(1633) |
| 享年 | 108歳ともいわれる | 65歳 |
| 出身 | 陸奥国会津とされる(前半生は不明な点が多い) | 京都。室町幕府の幕臣・一色秀勝の子 |
| おもな拠点 | 川越の喜多院、日光山、上野の寛永寺 | 京都の南禅寺金地院、江戸の金地院 |
| 得意分野 | 宗教儀礼、寺社の復興、朝廷とのやりとり | 外交文書、法令の起草、寺社の行政 |
| おもな仕事 | 家康を東照大権現としてまつる、寛永寺を開く、天海版大蔵経の出版を計画 | 武家諸法度・禁中並公家諸法度の起草、寺院の統制 |
| 光秀説 | 前半生が不明なため、光秀と同一人物とする俗説がある | なし |
天海と崇伝の対立 ― 家康は「権現」か「明神」か
二人の違いがはっきり表れたのが、元和2年(1616)に家康が亡くなったあとの論争です。家康を神としてまつる際、崇伝や本多正純は、吉田神道にもとづいて「明神」としてまつるべきだと主張しました。これに対して天海は、天台宗の山王一実神道にもとづき「権現」とすべきだと主張します。
天海は、豊臣秀吉が「豊国大明神」としてまつられたあと豊臣家が滅んだことを挙げて、「明神」は縁起が悪いと説いたと伝えられます。最終的に天海の主張が通り、家康には「東照大権現」の神号がおくられました。翌年、家康の遺骸は久能山から日光山に移されます。今の日光東照宮のはじまりです(徳川家康と秀忠)。
のちの寛永年間に、朝廷が僧に与えた紫衣の許可を幕府が取り消した「紫衣事件」でも、崇伝は厳しい処分を進め、抗議した大徳寺の沢庵らは流罪となりました。その後、沢庵らが許される際には、天海のとりなしがあったとも伝えられます。法と制度で厳しく治めようとした崇伝と、儀礼や調整を得意とした天海。同じ「黒衣の宰相」でも、その持ち味は対照的でした。
まとめ
天海=明智光秀説は、天海の前半生がよくわからないことから生まれた説です。日光の明智平や「願主光秀」の石灯籠、春日局とのつながりなどが根拠に挙げられますが、どれも決め手にはならず、年齢や当時の記録から見ても、同じ人物とみるのは難しいと考えられています。
ただ、そうした説が生まれるほど、天海は謎めいた、そして大きな仕事をした人物でした。もう一人の「黒衣の宰相」以心崇伝とあわせて見ると、家康が戦国の世を終わらせ、江戸幕府の土台を築くうえで、二人の僧がどれほど大きな役割を果たしたかがよくわかります。





















































