天正15年(1587)に明暗が分かれた武将たち|黒田官兵衛・立花宗茂の出世と、仙石秀久・高山右近の失脚 ― 九州平定の年の運命を一覧で

天正15年に明暗が分かれた武将たち(イメージ)

天正15年(1587)は、豊臣秀吉が九州を平定し、京に聚楽第を完成させ、北野で大茶会を開いた年です。秀吉の天下が大きく前に進んだこの一年は、武将たちにとっては運命の分かれ目でもありました。大名に取り立てられた者がいる一方で、領地を失った者、降伏した者、そしてこの年に世を去った者もいます。大河ドラマ『豊臣兄弟!』第42回「北野大茶湯」の舞台となる天正15年を、出来事の順ではなく、武将一人ひとりの「明暗」から見ていきます。

先に答え

天正15年に大きく運命が上向いたのは、豊前の大名になった黒田孝高(官兵衛)、柳川の大名に取り立てられた立花宗茂、筑前を与えられた小早川隆景、日向の旧領に戻った伊東祐兵などです。肥後を与えられた佐々成政も、この時点では大出世でした。

反対に、前年の戸次川の大敗で仙石秀久が讃岐を失い、バテレン追放令で高山右近が改易されました。九州では島津義久が降伏し、大友宗麟と大村純忠という二人のキリシタン大名がこの年に亡くなっています。

目次

「明」― 天正15年に運命が開けた武将たち

黒田孝高(官兵衛) ― 豊前の大名に

黒田孝高は、九州征伐で軍監として先に九州へ入り、豊前の城を次々に攻め落としました。その功により、九州国分で豊前6郡(中津)を与えられ、ついに一国の大半を治める大名となります。秀吉の軍師として知られた孝高ですが、それまでの領地は播磨の一部にすぎず、一国の大半を治めるほどの大きな領国を持つのはこれが初めてでした。ただし、入国してすぐに豊前の国人たちが一揆を起こし、その鎮圧に苦しむことになります。

立花宗茂 ― 大友家の家臣から独立した大名へ

立花宗茂は、前年に島津軍の大軍を立花山城で退け、実父の高橋紹運は岩屋城で玉砕していました。秀吉はこの働きを高く評価し、宗茂を大友家の家臣から切り離して、筑後柳川13万石余の大名に取り立てます。家臣が主家と同じ「大名」になるという、異例の出世でした(岩屋城の戦いをわかりやすく解説)。

小早川隆景 ― 筑前を任された毛利の重鎮

小早川隆景は、毛利元就の三男で、毛利家を支えた知将です。九州征伐での働きを認められ、筑前一国と筑後・肥前の一部を与えられて、九州北部の要に置かれました。秀吉が博多を含む筑前を隆景に任せたことは、隆景への信頼の大きさを物語っています。

伊東祐兵 ― 島津に奪われた故郷へ帰る

伊東祐兵は、日向の大名・伊東家の一族です。伊東家は天正5年(1577)に島津に敗れて日向を追われ、祐兵は流浪の末に秀吉に仕えていました。九州征伐で道案内をつとめた祐兵は、飫肥を与えられ、故郷の日向に戻ります。伊東家は飫肥藩として明治まで続きました。

佐々成政 ― 肥後一国の大出世、しかし…

佐々成政は、かつて秀吉と戦った武将ですが、のちに降伏して許され、九州征伐のあと肥後一国を与えられました。天正15年の時点では、まぎれもない大出世です。ところが、入国してすぐに検地を進めたことが国人たちの反発を招き、大規模な一揆が起こります。成政は翌年に切腹を命じられ、「明」から一転して「暗」へと転じました(肥後国人一揆をわかりやすく解説、佐々成政の生涯)。

「暗」― 天正15年に運命が暗転した武将たち

仙石秀久 ― 戸次川の大敗で讃岐を失う

仙石秀久は、秀吉の古くからの家臣で、讃岐の大名になっていました。ところが九州征伐の先発隊の軍監として、天正14年12月の戸次川の戦いで秀吉の命令にそむいて島津軍に攻めかかり、大敗します。長宗我部信親や十河存保を死なせたうえ、自分は讃岐へ逃げ帰ったため、秀吉の怒りを買って領地をすべて取り上げられました。高野山で謹慎する日々が始まります(戸次川の戦いをわかりやすく解説)。

戸次川の戦い
天正14年12月の戸次川の戦い。川を渡った豊臣方の援軍に、伏せていた島津軍が襲いかかった(イメージ)

もっとも、秀久の物語はここで終わりません。3年後の小田原征伐で、鈴を付けた陣羽織で奮戦して許され、信濃小諸の大名に返り咲きます。「暗」から「明」へ戻った、数少ない例です。

高山右近 ― 信仰を捨てず、大名の座を捨てる

高山右近は、明石の大名で、名の知られたキリシタン大名でした。天正15年6月、九州平定を終えた秀吉は博多でバテレン追放令を出し、右近にも信仰を捨てるよう迫ります。右近はこれを断り、領地を没収されました。秀吉の家臣として数々の戦で功を立ててきた右近は、大名の地位よりも信仰を選んだのです。その後は前田家に身を寄せることになります(バテレン追放令とキリシタン大名)。

島津義久 ― 九州制覇を目前に降伏

島津義久は、九州のほとんどを手中に収めかけていました。しかし秀吉・秀長の大軍の前に、天正15年4月の根白坂の戦いで敗れ、5月に剃髪して秀吉に降伏します。九州の大半を手放し、薩摩・大隅などの本国だけを残されました。弟の島津家久は降伏後まもない6月に急死し、島津家にとって苦しい年となりました。

大友宗麟と大村純忠 ― 九州平定を見届けずに世を去った二人

島津に追い詰められ、自ら大坂へのぼって秀吉に助けを求めた大友宗麟は、九州平定が成る直前の天正15年5月に亡くなりました。日本で最初のキリシタン大名として知られる大村純忠も、同じ年の4月に世を去っています。二人が亡くなってまもなく、秀吉はバテレン追放令を出しました。キリシタン大名の時代が一つの区切りを迎えた年でもあったのです。

秋月種実 ― 降伏し、筑前から日向へ

秋月種実は、筑前の秋月を本拠に島津方として戦いましたが、九州征伐で豊臣軍に岩石城を落とされ、降伏しました。名物の茶入「楢柴肩衝」を差し出して許されたと伝わります。本拠の秋月は取り上げられ、日向の財部(高鍋)へ移されました(岩石城の戦いをわかりやすく解説)。

一覧表で見る天正15年の明暗

武将天正15年に起きたこと明暗その後
黒田孝高豊前6郡の大名に明子の長政が筑前52万石へ
立花宗茂柳川の大名に取り立てられる明関ヶ原で改易、のちに柳川へ復帰
小早川隆景筑前などを与えられる明五大老の一人となる
伊東祐兵旧領の日向・飫肥に戻る明飫肥藩として続く
佐々成政肥後一国を与えられる明→暗翌年、一揆の責任で切腹
仙石秀久讃岐を没収され高野山へ(前年末の敗戦)暗→明小田原征伐で返り咲き、小諸の大名に
高山右近バテレン追放令で改易暗のちにマニラへ追放され、その地で没
島津義久降伏し、九州の大半を手放す暗関ヶ原後も本領を守る
島津家久降伏後まもなく急死暗子の豊久は関ヶ原で討死
大友宗麟九州平定の直前に死去暗子の義統は6年後に改易
大村純忠4月に死去暗子の喜前が大村を継ぐ
秋月種実降伏し、日向へ移される暗高鍋藩として家は続く

天正15年の明暗から見えること

こうして並べると、天正15年の明暗を分けたのは、九州征伐での働きと、秀吉への従い方だったことがわかります。島津と戦い抜いた立花宗茂や、軍監として働いた黒田孝高は取り立てられ、命令にそむいた仙石秀久は罰せられました。また、信仰を理由に秀吉の命令を拒んだ高山右近は、どれほど功績があっても許されませんでした。

一方で、「明」に見えた佐々成政が翌年に命を落とし、「暗」に沈んだ仙石秀久が3年後に返り咲いたように、天正15年の明暗は決して最後の結論ではありませんでした。その後の小田原征伐、朝鮮出兵、関ヶ原の戦いを経て、武将たちの運命はさらに入れ替わっていきます。天正15年の出来事を年表で追いたい方は、姉妹サイトの日本の歴史ガイド「天正十五年に何が起きたのか」もあわせてご覧ください。

まとめ

天正15年は、九州平定と聚楽第の完成、北野大茶湯によって、秀吉の天下が大きく固まった年です。その陰で、黒田孝高・立花宗茂・小早川隆景らが新たに九州の大名となり、仙石秀久・高山右近は領地を失い、島津義久は降伏し、大友宗麟と大村純忠はこの世を去りました。九州国分による大名配置は九州国分とはで、略図と一覧表にまとめています。

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