おおとも よしむね
| 地域 | 九州(豊後) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 大友氏(豊後の大名) |
| 大名家 | 大友家 |
| 家紋 | 杏葉 |
| 主武器 | ―(采配) |
| 衣装・甲冑 | 具足・陣羽織 |
| 武将タイプ | 家を失った当主 |
大友義統(おおとも よしむね)は、大友宗麟の嫡男で、大友家の当主である。のちに吉統とも名のった。永禄元年(1558年)に生まれ、慶長15年(1610年)に53歳で亡くなった。島津家の攻撃で一度は国を失いかけたが、豊臣秀吉に救われた。しかし朝鮮出兵で敵前から逃げたとして改易され、関ヶ原の戦いのさいには旧領回復をはかったが黒田官兵衛に敗れた。
3行でわかる大友義統
- 大友宗麟の嫡男で、父のあとを継いだ
- 島津家の攻撃で豊後を荒らされたが、豊臣秀吉の九州征伐で救われた
- 文禄の役で敵前逃亡したとして改易され、関ヶ原では石垣原の戦いで敗れた
目次
島津家の攻撃
義統は父の宗麟から家督を継いだが、天正6年(1578年)の耳川の戦いで大友軍が島津軍に大敗してから、大友家の力は衰えた。天正14年(1586年)には島津家が豊後に攻めこみ、豊臣方の援軍も戸次川の戦いで敗れた。
豊臣秀吉の九州征伐によって島津家は降伏し、義統は豊後一国を認められた。
朝鮮出兵と改易
文禄2年(1593年)、朝鮮出兵(文禄の役)のさなか、義統は平壌の小西行長が明軍に攻められたとき、救援に向かわず退却した。秀吉はこれを敵前逃亡として怒り、義統を改易した。鎌倉時代から続いた名門・大友家は、大名としての地位を失った。
石垣原の戦い
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いのとき、義統は西軍の支援を受けて豊後に戻り、旧領の回復をはかった。しかし東軍の黒田官兵衛(如水)に石垣原の戦い(大分県別府市)で敗れ、降伏した。その後は常陸に流され、慶長15年(1610年)に亡くなった。
大友義統をめぐる人物
- 父:大友宗麟
- 攻めてきた相手:島津義久
- 改易した相手:豊臣秀吉
- 石垣原で戦った相手:黒田官兵衛(如水)
ゆかりの地
- 石垣原古戦場(大分県別府市):黒田官兵衛と戦った地
- 大友氏館跡(大分市):大友家の館の跡


大友宗麟
黒田官兵衛
豊臣秀吉
島津義久
小西行長







































