おおむら よしあき
| 地域 | 九州 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 大村氏 |
| 大名家 | 大村氏 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀 |
| 衣装・甲冑 | 塗具足 |
| 武将タイプ | 転身・棄教 |
大村純忠の子で、肥前大村藩の初代藩主。天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州平定後に本領を安堵され、近世大名となった。玖島城を築き、関ヶ原の戦いでは東軍に属した。キリシタンであったが棄教し、日蓮宗に帰依した。
純忠の子として
大村喜前(おおむら よしあき)は、織豊時代から江戸時代前期の大名である。永禄12年(1569)に生まれた。父はキリシタン大名として知られる大村純忠。初名は喜純、通称は新八郎。
純忠は元亀元年(1570)に長崎を開港し、南蛮貿易を軸に外交を進めた。喜前もキリシタンとして育った。純忠は天正15年(1587)に没し、喜前が家を継いだ。
大村藩の成立
天正15年(1587)、喜前は豊臣秀吉の九州平定(島津攻め)に従った。戦後、本領を安堵され、2万1千石余りを領する大名となった。これが肥前大村藩の始まりで、喜前は初代藩主にあたる。文禄・慶長の役(朝鮮出兵)にも従軍し、小西行長の軍に属したとされる。
それまでの大村氏の居城は、内陸の三城城であった。喜前は大村湾に面した地に玖島城(長崎県大村市)を築き、慶長4年(1599)に完成させて居城を移した。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍に味方し、所領を保った。大村家はこののち幕末まで大村藩を治めた。
棄教と御一門払い
喜前はのちにキリスト教を捨て、日蓮宗に改宗した。棄教の時期は慶長7年(1602)とも、慶長10年(1605)ともいわれる。本経寺の寺伝では、加藤清正との交流が改宗のきっかけとなった。喜前は大村家の菩提寺として日蓮宗の本経寺を開き、熊本の本妙寺から僧を招いた。慶長10年(1605)に工事が始まり、伽藍は慶長13年(1608)ごろに完成した。
慶長12年(1607)には、一族の庶家を領外へ追放する「御一門払い」を行い、藩主の権力を固めた。元和2年(1616)8月8日、48歳で没した。本経寺には大村藩主家の墓所があり、国の史跡に指定されている。墓所には、歴代藩主の大きな墓碑が並ぶ。
ゆかりの地
- 玖島城跡(長崎県大村市):喜前が築き、慶長4年(1599)に完成した大村藩の居城
- 本経寺(長崎県大村市):喜前が開いた大村家の菩提寺。大村藩主大村家墓所は国史跡
- 大村神社(長崎県大村市):境内に大村喜前公遺徳碑がある
参考にした資料
大村喜前とは
大村喜前は、大村純忠の子で、肥前の大村藩の初代藩主です。
キリシタン大名として
喜前も、父と同じくキリスト教の洗礼を受けていました。しかし、のちに信仰を捨てました。
加藤清正の影響
喜前が信仰を捨てたのは、加藤清正のすすめがあったためとも伝えられます。
玖島城
喜前は、大村湾に面した玖島城を築き、本拠としました。
評価
喜前は、キリシタン大名の家に生まれながら、時代の流れの中で信仰を捨て、大村藩を江戸時代の大名家として残した人物です。
このイラストについて
このイラストは、港と島々を背に立つ喜前を描いています。
引き締まった顔と赤い衣の甲冑で、大村藩を開いた当主の意志を表しました。
海に浮かぶ島々と城は、大村湾と玖島城をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
肥前の大村を本拠とした家。大村純忠は日本で最初のキリシタン大名として知られ、長崎の港をポルトガル船に開いた。1580年には長崎をイエズス会に寄進している。
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