たなか よしまさ
| 地域 | 近江国出身、三河国岡崎・筑後国柳川(福岡県柳川市) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 豊臣家臣のち徳川方(東軍) |
| 大名家 | 田中氏 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | ― |
| 衣装・甲冑 | ― |
| 武将タイプ | 内政・町づくり型の大名 |
田中吉政は、近江国出身の武将で、豊臣秀吉・秀次に仕えて出世した。関ヶ原の戦いでは東軍につき、石田三成を捕らえた功で筑後一国32万石余を与えられ、柳川城主となった。柳川の城と町の骨組みをつくった人物として知られる。
近江から豊臣家臣へ
吉政は天文17年(1548)、近江国(滋賀県)に生まれた。初めの名は長政、または宗政という。
はじめは宮部継潤(善祥坊)に仕えた。のちに豊臣秀吉に仕え、秀吉の命で甥の豊臣秀次につけられた。秀次の家臣団では筆頭家老の立場にあり、秀次の居城・近江八幡山城の城下町づくりを支えたとされる。
岡崎城主として
天正18年(1590)まで、吉政は近江八幡山城主として3万石を領した。同年の小田原征伐のあと、三河の岡崎城主となり、5万7400石を与えられた。のちに加増されて10万石を領した。
文禄4年(1595)に秀次が切腹させられる事件がおきたが、吉政は大名として生き残った。
秀次のもとで吉政は、城下町の整備や領地の経営にあたった。岡崎でも城と城下の整備を進めたと伝わり、町づくりの手腕は高く評価されている。
関ヶ原の戦いと三成の捕縛
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、吉政は徳川家康の東軍に属した。戦いのあと、近江に逃れていた西軍の中心人物、石田三成を捕らえる手柄を立てた。
この功により、筑後一国32万5000石余を与えられ、柳河(柳川)に城を置いた。従四位下に進み、のちに侍従・筑後守となった。
柳川の町づくりと田中家の断絶
吉政は柳川城に五層の天守を築き、城の整備を進めた。近世柳川城の大枠は、このときに完成したとされる。城下には堀割(掘割)を張りめぐらせ、今に残る「水の町」柳川の基礎をつくった。
吉政は慶長14年(1609)2月18日、江戸へ向かう途中で亡くなった。62歳であった。遺領は子の田中忠政が継いだ。しかし忠政は元和6年(1620)に跡継ぎのないまま亡くなり、田中家の柳川藩は断絶した。
そのあと柳川には、関ヶ原で西軍について領地を失っていた立花宗茂が戻った。立花家は明治維新まで柳川藩主を務めた。吉政を葬った真勝寺は、今も柳川市に残っている。
柳川城下には、立花家と田中家の菩提寺がならんで残っている。これは珍しいことで、立花宗茂が前の領主である吉政を敬っていたためとも考えられている。
ゆかりの地
- 真勝寺(福岡県柳川市新町):田中家の菩提寺。本堂の下に吉政の墓があると伝わる
- 柳川城跡(福岡県柳川市本城町):吉政が天守を築き城下に堀割をめぐらせた城
- 岡崎城(愛知県岡崎市康生町):吉政が10万石の城主として治めた城
参考にした資料
田中吉政とは
田中吉政は、近江の出身で、豊臣秀次の家老から身を起こした武将です。のちに筑後一国の大名となりました。
岡崎の町づくり
吉政は、三河の岡崎城主として城下町を整えました。東海道を城下に引き入れた町づくりは、岡崎の発展の基礎となりました。
石田三成の捕縛
関ヶ原の戦いののち、吉政の家臣が近江の山中で石田三成を捕らえました。吉政と三成は、同じ近江の出身でした。
柳川の掘割
筑後の柳川に入った吉政は、掘割を整えて城下町を築きました。今の柳川の水路の町並みは、その流れを受け継いでいます。
評価
吉政は、岡崎と柳川という二つの町の基礎を築いた、町づくりにすぐれた大名です。しかし子の代で跡継ぎが絶え、田中家は大名として続きませんでした。
このイラストについて
このイラストは、水路の流れる城下町を背に立つ吉政を描いています。
兜をかぶり、町を見渡す姿で、町づくりに力を注いだ大名の姿を表しました。
水路と城は、吉政が整えた柳川の掘割の町をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
尾張の百姓の家に生まれたとされる羽柴(豊臣)秀吉が、織田信長に仕えて一代で築いた家。本能寺の変の後、山崎の戦いで明智光秀を討ち、清洲会議と賤ヶ岳の戦いを経て織田家中の主導権を握った。1585年に関白となり、翌年には朝廷から「豊臣」の姓を賜っている。
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