ありま なおずみ
| 地域 | 九州(肥前→日向) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 有馬家・徳川家(江戸幕府) |
| 大名家 | 有馬家 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | ― |
| 衣装・甲冑 | ― |
| 武将タイプ | 大名・藩主 |
有馬直純は、肥前のキリシタン大名・有馬晴信の子である。徳川家康の養女を妻に迎え、父が岡本大八事件で失脚したあとも家を保った。慶長19年(1614)に日向県(延岡)へ移り、延岡藩有馬家の初代藩主となった。
肥前有馬家に生まれる
有馬氏は、藤原純友の子孫と称したが、実際には肥前藤津荘の荘司であった平清澄・直澄の子孫とみられている。7代経澄のとき、鎌倉幕府から肥前国有馬荘の地頭職を得て、有馬を名乗ったという。
戦国時代の当主・有馬晴信はキリシタン大名として知られる。晴信は天正15年(1587)に豊臣秀吉に従い、高来郡4万石を治めた。直純はこの晴信の子として天正14年(1586)に生まれた。幼名は大吉という。幼いころに洗礼を受けている。
徳川家との縁と父の失脚
直純ははじめ小西行長の姪を妻としていた。しかし徳川家康の養女・国姫を妻に迎えることになり、前の妻とは別れた。
慶長17年(1612)、父の晴信は岡本大八事件にかかわったとして甲斐へ流された。ふつうなら家が取りつぶされてもおかしくない。だが直純は徳川家と縁を結んでいたため、本領を受け継ぐことを許された。
直純は幕府の禁教令に従ってキリスト教を捨てた。そして領内のキリシタンの取り締まりを強め、多くの殉教者が出たとされる。
延岡への転封と島原の乱
慶長19年(1614)、直純は日向国県(延岡)5万3000石に移された。これが延岡藩有馬家の始まりである。移るとき、多くの家臣を旧領の島原に残したという。
寛永14年(1637)に島原の乱が起こると、直純は幕府軍に加わり、かつての自分の領地の人々と戦うことになった。この戦いで功を立てたとされる。直純は寛永18年(1641)に亡くなった。
有馬家のその後
直純の子孫は延岡を治めたのち、元禄4年(1691)に越後糸魚川へ移った。さらに元禄8年(1695)には越前の坂井・吉田・南条の3郡のうち5万石を与えられ、丸岡城主となった。
有馬家は丸岡藩主として代々続き、明治維新を迎えた。明治時代には子爵となっている。父の失脚という危機を乗りこえた直純の判断が、家を幕末まで残すことにつながったといえる。
ゆかりの地
- 日野江城跡(長崎県南島原市北有馬町):有馬氏の本城。国の史跡
- 延岡城跡(宮崎県延岡市):直純が入った延岡藩の城。現在は城山公園
参考にした資料
有馬直純とは
有馬直純は、肥前の有馬晴信の子です。のちに日向の延岡藩主となりました。
徳川家との縁
直純は、家康の養女・国姫を妻に迎えました。徳川家との結びつきは、有馬家の存続に大きな意味を持ちました。
父・晴信の失脚
慶長17年(1612年)、父・晴信は岡本大八事件で失脚し、のちに命を落としました。直純は、家を継いで有馬家を守りました。
延岡藩
直純は、日向の延岡に移され、延岡藩の藩主となりました。
評価
直純は、父の失脚という危機の中で家を継ぎ、徳川家との縁を生かして有馬家を守った当主です。
このイラストについて
このイラストは、港と城を背に立つ直純を描いています。
若々しい顔と金色の羽織で、有馬家を受け継いだ若い当主の姿を表しました。
海辺の城と船は、有馬家の本拠だった肥前の島原半島をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
肥前の島原半島を本拠とした家。有馬義貞・晴信はキリシタン大名として知られ、晴信は天正遣欧少年使節を送り出した大名の一人でもある。
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