かつら もとずみ
| 地域 | 安芸国(広島県) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 毛利家臣・宿老 |
| 大名家 | 毛利氏 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 采配 |
| 衣装・甲冑 | 当世具足 |
| 武将タイプ | 智将・城代 |
桂元澄は、安芸の毛利元就に仕えた重臣である。厳島の戦いでは、陶晴賢に「毛利を裏切る」と偽って伝え、陶軍を厳島へ誘い出したと伝わる。戦いの後は桜尾城主として廿日市一帯を治めた。
桂氏の家と父・広澄
桂氏は毛利氏の一族である坂氏から分かれた家で、毛利氏の家臣団の中でも重い家柄であった。元澄は明応9年(1500)に生まれたとされる。父は桂広澄である。
大永3年(1523)、毛利家の幼い当主幸松丸が亡くなり、跡継ぎ選びが問題になった。家老の志道広良らは元就を推し、元就が家督をついだ。ところが広澄の一族は、元就の異母弟(相合元綱)を立てようとして処罰された。広澄は一度は許されたが、のちに疑われることを恐れ、大永4年(1524)に自害した。
元就の信頼を得る
父の自害のとき、元澄も兄弟とともに死を覚悟したが、元就に止められたと伝わる。元就は桂一族を責めず、そのまま家臣として重く用いた。
元澄はこの恩にこたえ、元就の側近として仕えた。元就が安芸の小さな国人から中国地方の大名へと成長していく間、元澄は家臣団の重鎮として支え続けた。
元澄の弟たちも毛利家に仕え、桂一族は毛利家中で大きな勢力を持つようになった。父の事件があったにもかかわらず一族が重く用いられたことは、元就の家臣のまとめ方をよく示している。
桜尾城と厳島の戦い
桜尾城(廿日市市)は、厳島神社の神領を治めた友田氏の城であった。天文23年(1554)、元就が陶晴賢と手を切ると、毛利方はこの城を押さえ、元澄を城主に置いた。
翌年の天文24年(1555)、元就は厳島で陶晴賢の大軍を破った。軍記物などによれば、元澄は晴賢に内通を約束する偽の手紙を送り、陶軍を厳島へおびき寄せる役を果たしたという。晴賢はこの戦いで自害し、毛利氏が大内氏の旧領を手に入れるきっかけとなった。
厳島の戦いは、兵の少ない毛利軍が大軍の陶軍を破った戦いとして知られる。狭い島に敵を誘い込むことが勝利の鍵であり、元澄の偽の内通は、その計略の一部として語りつがれている。
晩年と桂氏の子孫
元澄は永禄12年(1569)に亡くなったとされる。墓は廿日市市の洞雲寺にあり、夫妻の墓が市の史跡になっている。桜尾城は、のちに元就の四男・穂井田元清が城主となった。
元澄には多くの子があり、桂氏は江戸時代も長州藩(萩藩)の家臣として続いた。明治の政治家である木戸孝允(桂小五郎)が養子に入った桂家や、桂太郎の家も、この桂氏の流れをくむとされる。
ゆかりの地
- 洞雲寺(広島県廿日市市佐方):桂元澄夫妻の墓がある寺。市指定史跡
- 桜尾城跡(広島県廿日市市桜尾本町):元澄が城主となった城。今は桂公園に石碑が残る
参考にした資料
桂元澄とは
桂元澄は、毛利元就に仕えた重臣で、安芸の桜尾城の城主を務めました。
父・広澄
元澄の父・広澄は、元就の家督相続をめぐる騒動の責任をとって自害したと伝えられます。
元就の信頼
元澄は、父のことがありながらも元就の信頼を得て、重く用いられました。
厳島の戦いの計略
厳島の戦いの前、元澄は陶晴賢に内通するふりをして、晴賢を厳島へおびき出す計略に関わったと伝えられます。
評価
元澄は、元就の信頼の厚い重臣として、厳島の戦いの勝利に大きく関わった人物です。
このイラストについて
このイラストは、厳島の大鳥居を背に、書状を手にした元澄を描いています。
白髪の年配の顔と書状を持つ姿で、計略に関わった重臣の知恵を表しました。
海に立つ鳥居は、厳島の戦いの舞台となった厳島をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
安芸の一国人にすぎなかった毛利氏を、元就が一代で中国地方の覇者へ押し上げた。出雲の尼子氏と周防の大内氏という二大勢力に挟まれながら、次男元春を吉川家へ、三男隆景を小早川家へ送り込んで両家を一門化し、「毛利両川」と呼ばれる体制を作った。
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