毛利秀元 | 吉川元春の次男(毛利輝元養子)。朝鮮の役で毛利軍の総大将として活躍。関ヶ原では南宮山に陣を張るも動けず無念の撤退

もうり ひでもと

地域中国
所属勢力・属性毛利一門
大名家毛利一門
家紋一に三つ星
主武器太刀・采配
衣装・甲冑黒塗具足
武将タイプ勇猛・名将
目次

毛利秀元とはどんな武将か

毛利秀元は、戦国の終わりから江戸時代の初めにかけて生きた武将で、中国地方に覇を唱えた毛利元就の血を色濃く受け継ぎながら、天下の大転換を身をもって味わった人物である。一時は毛利本家の跡取り候補と目され、豊臣秀吉に将来を嘱望されながらも、関ヶ原の戦いでは思うにまかせぬ立場に置かれ、その生涯には栄華と不遇の両方が濃く刻まれている。武勇にすぐれるだけでなく、茶の湯や和歌といった文化の道にも深く親しみ、文武を兼ね備えた大名として、長門長府の地に一つの家を打ち立てた点で特筆される存在といえる。

備中に生まれた元就の孫

秀元が生まれたのは天正7年、西暦でいえば1579年のことで、生地は備中国の猿掛城であったと伝えられ、幼い頃から名門毛利の一員として周囲の期待を集めて育っていった。父はのちに触れる穂井田元清であり、その父こそ中国地方に一大勢力を築いた毛利元就であったから、秀元は元就の孫という血筋の良さを生まれながらに背負っていたのである。毛利家は元就の代に安芸の小領主から西国屈指の大大名へと飛躍しており、秀元はその繁栄の頂点に近い時期に生を受け、名家の子としての自覚を早くから求められて成長した。

父・穂井田元清という人物

秀元の実の父である穂井田元清は、毛利元就の四男にあたり、兄である毛利隆元や吉川元春小早川隆景といった名だたる兄弟に伍して、毛利一門を支えた重臣の一人であった。元清は備中や安芸の各地を治めながら、当主である甥の毛利輝元をよく補佐し、堅実な働きぶりで一門の結束を保つうえで欠かせない役割を果たした武将として知られている。こうした父のもとで育ったことは、秀元が単なる血筋だけでなく、実務や軍事に通じた確かな素養を身につけるうえで、大きな土台になったと考えてよいだろう。

毛利本家への養子入り

当時の毛利本家の当主は毛利輝元であったが、輝元にはなかなか実の子が生まれず、家の後継ぎをどうするかという問題が一門にとって切実な課題となっていた。そこで白羽の矢が立ったのが、血筋も申し分なく利発と評判の高かった秀元であり、天正12年、西暦でいえば1584年に輝元の養子として本家に迎えられることになった。これによって秀元は、単なる一門の子という立場から一躍、西国の巨大な大名家をいずれ継ぐかもしれない後継含みの存在へと押し上げられ、その名は一門の内外に広く知られていった。

兄の死と嫡男への道

秀元がこれほど重い立場に立つことになった背景には、実は兄である宮鶴丸の早すぎる病死という不幸があり、この出来事が彼の運命を大きく方向づけたのである。本来であれば家を継ぐはずだった兄を失ったことで、秀元は穂井田家の嫡男として位置づけられ、さらに輝元の養子という二重の期待を一身に背負うこととなった。若くして重責を担わされた秀元は、周囲の視線にこたえるべく学問や武芸にはげみ、名門の後継者にふさわしい器量を磨いていったと後世に語り伝えられている。

豊臣秀吉との対面と偏諱

天下人となっていた豊臣秀吉は、西国の要である毛利家の動向を重視しており、その後継含みの若者である秀元にも早くから目をかけ、直接引き合わせる機会を設けている。天正20年、西暦でいえば1592年に秀元は広島城で秀吉と対面し、輝元の跡取りとして正式に認められたうえ、秀吉の名から一字を賜って秀元と名乗るようになった。天下人からじきじきに偏諱を受けるという栄誉は、当時の武将にとって最高の名誉の一つであり、秀元がいかに将来を嘱望されていたかを何よりも雄弁に物語る出来事であった。

文禄の役での初陣

秀元が世に武名を示す最初の大きな舞台となったのが、秀吉が号令をかけた朝鮮への出兵、いわゆる文禄の役であり、彼はまだ十代半ばの若さで海を渡ることになった。このとき養父の毛利輝元とともに大陸へおもむいた秀元は、天正から文禄にかけての戦いのなかで実戦を経験し、名門の跡取りとしての度胸と器量を試される日々を送った。若年ながら大軍の一翼を担ったこの初陣の経験は、のちに大将として兵を率いる秀元にとって、かけがえのない修練の場となり、その後の生涯を支える自信の源となった。

慶長の役と三万の総大将

いったん講和が破れて再び戦端が開かれた慶長の役では、秀元の存在感はさらに高まり、毛利軍およそ三万という大軍を束ねる総大将格の重責を任されるまでになった。大陸の各地で明の軍勢と激しくぶつかりあうなか、秀元は城攻めや救援の戦いに加わって奮戦し、若き大将としての力量を敵味方に強く印象づけていったと伝えられている。この二度にわたる海外での戦役を通じて、秀元は毛利一門のなかでも屈指の武将として頭角をあらわし、秀吉からの信頼をますます厚くしていったのである。

秀就の誕生と世嗣の辞退

ところが秀元の運命に大きな転機が訪れる。長らく実子に恵まれなかった養父の毛利輝元に、ついに嫡男である秀就が生まれ、後継ぎの問題が根本から動くことになったのである。血を分けた実子が生まれた以上、本家を継ぐべきは当然その子であるという道理から、秀元は自ら進んで後継ぎの座を辞退し、輝元の跡目を幼い秀就にゆずる決断をくだした。この身の引き方には秀元の潔さがよくあらわれているが、同時に、いったんは天下の名家を継ぐと目された者が一歩退くという、複雑な心境をともなう選択であったにちがいない。

独立した大名としての分知

後継ぎの座を退いたとはいえ、秀元がそのまま無位無禄となったわけではなく、毛利一門のなかでしかるべき地位と所領をあたえられ、独立した大名として遇されることになった。慶長4年、西暦でいえば1599年ごろには、本家からまとまった所領を分けあたえられ、みずからの家臣団を率いる一個の大名として立つ基盤を築いていった。こうして秀元は、本家の後継ぎという立場からは離れながらも、毛利の一門を支える有力な柱の一人として、あらためて自分の家の行く末を担うことになったのである。

関ヶ原前夜の毛利家

秀吉が世を去ると天下は再び揺れ動き、徳川家康と石田三成らの対立が深まるなか、西国最大の大名である毛利家がどちらにつくかは、天下の趨勢を左右する重大事となった。毛利本家は西軍の総大将にかつぎ上げられる一方で、一門や重臣の間では家康と通じようとする動きもあり、家中の足並みは決して一つにそろってはいなかった。こうした割れた思惑のなかで秀元は西軍の一翼として動くことになるが、彼自身の意思とは別に、一門の駆け引きが彼の運命を大きく縛っていくことになる。

南宮山への布陣

天下分け目の決戦となった関ヶ原の戦いにおいて、秀元は美濃の南宮山という高台に大軍を率いて陣を敷き、徳川方の背後をうかがう絶好の位置を占めていた。もしこの南宮山の毛利勢が山を下りて家康の本陣の後方を突いていれば、戦いの帰趨は大きく変わっていたかもしれず、秀元の一挙手一投足に多くの目が注がれていた。当の秀元自身は戦意を失っておらず、機を見て打って出ようとする構えを見せていたが、彼の前にはひとつの大きな障害が立ちはだかっていたのである。

吉川広家の内通

秀元の出撃をはばんだのは、同じ毛利一門で従兄弟筋にあたる吉川広家であり、広家は毛利家の存続をはかるべく、ひそかに徳川家康の側と密約を結んでいたのである。広家は南宮山のふもとに自軍を置いて前方をふさぎ、後ろに控える秀元の部隊が山を下って戦場へ向かおうにも、道が通れないという状況を作り出してしまった。総大将である毛利輝元が大坂城を動かず、広家が家康と通じていたことで、毛利勢は大軍を擁しながらも一戦も交えることなく、ただ戦況を見守るほかない立場に追い込まれた。

宰相殿の空弁当

この動けぬ毛利勢をめぐって、後世に長く語り継がれることになったのが、いわゆる宰相殿の空弁当という逸話であり、秀元の不本意な立場を象徴する出来事として知られている。西軍の長束正家から早く出撃せよという催促の使者が届いたとき、前方を吉川広家にふさがれて動けない秀元は、今は兵に兵糧を食べさせている最中であると答えて時間をかせいだと伝えられる。参議という官職が唐の名で宰相と呼ばれたことから、秀元は宰相殿と称されており、いつまでも弁当を口実に動かぬ様子を皮肉って、人々はこれを宰相殿の空弁当と呼びならわしたのである。

戦後処理と改易の危機

西軍が敗れると、毛利家には過酷な戦後処理が待っており、いったんは所領を安堵するという約束もありながら、結局は大幅な減封という厳しい沙汰がくだされることになった。秀元自身も、みずからの所領をいったん失いかねない改易同然の危機に直面し、名門毛利の一門が一挙に没落しかねないという、まさに存亡の瀬戸際に立たされた。戦後、秀元は立花宗茂島津義弘らとともに大坂城で徹底抗戦し、なお家康に一矢報いるべきだと主張したとも伝えられ、その気概はなお衰えていなかったことがうかがえる。

長門長府藩の成立

こうした苦境のなかで、秀元は本家との調整を経て、長門国の長府の地におよそ五万石ほどの所領をあたえられ、あらためて一つの大名家を構えることになった。この長府の所領はのちに三万数千石ほどに定められていくが、いずれにせよ秀元はここに長府藩の初代の祖として、みずからの家をあらたに打ち立てることに成功したのである。関ヶ原での不遇を乗りこえてなお家を残したこの事跡は、秀元の粘り強さと交渉の巧みさを示すものであり、長府毛利家はここから二百数十年の歴史を歩み始めることになった。

養父・毛利輝元との関係

秀元にとって養父である毛利輝元は、いったんは自分を後継ぎに迎えながら、実子の誕生によってその座をゆずる形となった、複雑な感情のからむ相手であった。それでも秀元は本家に対する忠義を保ち続け、輝元の存命中はその意向を重んじつつ、毛利一門全体の安泰のために尽力する姿勢をくずすことはなかったと伝えられている。養父と養子という関係は、後継ぎ問題や関ヶ原の対応をめぐってさまざまな緊張をはらんでいたが、秀元はあくまで一門の柱としての務めを果たそうと努めたのである。

当主・秀就との確執

輝元の跡を継いで毛利本家の当主となったのは、かつて秀元が後継ぎの座をゆずった相手である秀就であり、この二人の間にはやがて深刻な対立が生じることになった。秀元は一門の長老格として本家に対する発言権を強く主張し、また子どもの縁組をめぐる約束が反故にされたことなどもあって、当主秀就との間に根深い軋轢がつのっていった。この不和は幕府をも巻きこむ争いに発展したが、最終的には将軍家のとりなしによって和解にいたり、毛利一門は表向きの結束をどうにか取りもどすことができた。

藩政の改革と財政再建

長府藩の祖となった秀元は、単に領地をあたえられただけの大名にとどまらず、みずからの領国の経営にも積極的に取り組み、藩の土台をかためることに力をそそいだ。領内では土地の調査である検地を進めて年貢の基盤を整え、増えた石高をもとに財政の立て直しをはかり、藩がかかえていた借財の返済にも道筋をつけたと伝えられている。こうした地道な藩政改革によって、長府藩は初代の代のうちに経営の基礎を固めることができ、秀元は武将としてだけでなく為政者としての手腕もあわせ持っていたことを示した。

大坂の陣における秀元

関ヶ原ののち徳川の世が定まっていくなかで、豊臣家との最後の対決となった大坂の陣においても、秀元は長府の大名として軍役を担い、徳川方の一員として出陣した。かつて西軍に属して不遇をかこった秀元であったが、いまや徳川の体制に組み込まれた大名として、その求めに応じて兵を率い、新しい世の秩序のなかで確かな地歩を占めていた。この陣を通じて秀元は、旧敵であった徳川家に対しても忠実に務めを果たす姿勢を示し、長府毛利家の立場を安泰なものとするうえで、着実に信用を積み重ねていったのである。

戦国の争乱から豊臣の天下、そして徳川の世へと、時代の激しい移ろいをそのつど生き抜いた秀元の身の処し方には、乱世を渡る武将のしたたかな知恵がよくあらわれている。

茶の湯に親しむ文化人

秀元のもう一つの大きな顔は、武辺一辺倒ではない教養ゆたかな文化人としての姿であり、とりわけ茶の湯の道においてその名は高く、当代一流の茶人としても知られていた。秀元は千利休の高弟として名高い古田織部に茶の湯を学んだと伝えられ、織部が催した茶会に招かれるなど、当時の茶の湯の第一線とも深いつながりを持っていた。戦乱の時代を生き抜いた武将でありながら、静かな茶室で心を練るこうした営みに親しんだことは、秀元の人物像に奥行きをあたえ、その名を後世に伝える大きな要素となっている。

和歌と学芸への傾倒

茶の湯とならんで秀元が心をかたむけたのが和歌をはじめとする学芸の世界であり、彼は歌の道にも通じ、みやびな文化に深い理解を示す教養人としても評価されていた。戦国の荒々しい気風のなかにあって、武勇と教養をともに高い水準で兼ね備えた秀元のような大名は決して多くはなく、その点で彼はひときわ際立った存在であったといえる。文武両道を体現したその姿は、江戸という新しい平和な時代にふさわしい大名像を先取りするものであり、長府毛利家の家風にも大きな影響をあたえていったと考えられている。

江戸に生きた長老大名

晩年の秀元は、多くの時を江戸で過ごし、幕府の重んじる長老格の大名として、将軍や諸大名との交わりのなかで独特の存在感を放っていた。文武の道に通じた教養人としての名声は江戸の地でも高く、秀元のもとには学問や芸能を志す人々が集まり、その屋敷は一種の文化の拠点のようなおもむきを帯びていたと伝わる。

旧来の毛利一門を代表する重鎮として、また本家である長州藩の後ろ盾として、秀元は幕府と毛利家との間をとりもつ役割をも静かに果たし続けた。戦場での武勇から領国の経営、そして江戸での文化的な営みへと、その生涯の力点を移しながら長い年月を生きた秀元の姿は、移りゆく時代を体現するものであった。

徳川将軍家との縁と晩年

関ヶ原では西軍として不遇をかこった秀元であったが、時が移ると徳川将軍家からもその人物と教養を高く買われ、将軍のそば近くに仕える御伽衆として重んじられるまでになった。家康の養女を継室に迎えるなど徳川家との縁もむすばれ、秀元は新しい世のなかで巧みに身を処し、旧敵の側からも一目置かれる長老格の大名として遇されるようになったのである。慶安3年、西暦でいえば1650年に江戸で世を去るまで、秀元はおよそ七十年を超える長い生涯を保ち、激動の時代を生き抜いた稀有な武将として、その名を歴史に深く刻みつけた。

子孫と長府毛利家のその後

秀元が築いた長府藩は、嫡男が跡を継いで代々受け継がれ、さらにその一族からは支藩となる家も分かれ出るなど、幕末にいたるまで確かな歩みを続けていくことになった。長府毛利家は本家である長州藩を一門として支え続け、幕末の動乱の時代にも重要な役割を果たすなど、秀元がまいた種は二百数十年の時をこえて豊かに実を結んでいった。後継ぎ問題や関ヶ原の不運、当主との確執といった数々の試練を乗りこえてなお一つの家を残した秀元の生涯は、逆境にあってもしたたかに道を切りひらいた武将の姿として、今も語り継がれている。

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