ひらが ひろすけ
| 地域 | 安芸国高屋(広島県東広島市) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 安芸の国衆(大内氏→毛利氏) |
| 大名家 | 平賀氏 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 槍 |
| 衣装・甲冑 | 戦国期の胴丸 |
| 武将タイプ | 国衆 |
平賀広相は、戦国時代の安芸国高屋(広島県東広島市)を本拠とした国衆、平賀氏の当主である。兄の死後に乱れた家を立て直し、毛利元就の後押しで平賀家を継いだ。小早川隆景と兄弟の契りを結び、毛利氏を支える有力な国衆となった。
東国から来た平賀氏
平賀氏は、もともと東国の武士の家である。鎌倉時代に安芸国の高屋保(東広島市)の地頭となって移り住み、そこに根をおろした。
平賀氏は、弘安年間(1278~1287)に御薗宇城を築き、約200年のあいだ本拠とした。戦国時代になると、広相の祖父にあたる弘保が文亀3年(1503)に白山城を、大永3年(1523)には頭崎城を築いた。頭崎城は比高約200メートルの山の上にある山城で、広相の父・興貞が城主となった。
家督をめぐる争い
広相は大永8年(1528)、平賀興貞の子として生まれた。父の興貞は頭崎城にたてこもり、出雲の尼子氏についたことがある。安芸の国衆は、大内氏と尼子氏という二つの大きな勢力のあいだで揺れていた。
家は兄の隆宗が継いだが、天文18年(1549)7月に病で亡くなった。そのあと平賀家は、大内義隆の意向で送りこまれた隆保に継がれてしまう。天文20年(1551)に大内義隆が倒れると、広相は毛利元就の後押しを受けて隆保を倒し、平賀家を取りもどしたとされる。
毛利氏の有力な国衆として
天文21年(1552)、広相は元就の三男・小早川隆景と兄弟の契約を結んだ。翌年には毛利氏・吉川氏も加えた4家の盟約を結び、毛利氏のもとの有力な国衆という立場を固めた。このとき平賀氏の所領は約1万8000石だったとされる。
その後、広相は厳島の戦いにも加わり、毛利氏の勢力拡大を支えた。永禄10年(1567)3月17日に40歳で亡くなった。
平賀氏のその後
広相の死後も、平賀氏は毛利氏に従って続いた。関ヶ原の戦いのあと毛利氏が長門・周防へ移ると、平賀氏もこれに従い、江戸時代には長州藩(萩藩)の藩士として明治まで家を保った。
平賀氏に伝わった古文書は「平賀家文書」として残り、中世の安芸を知る大切な資料となっている。東広島市高屋町には、平賀氏の城跡や墓所が「平賀氏の遺跡」として広島県の史跡に指定されている。
ゆかりの地
- 頭崎城跡(広島県東広島市高屋町):父興貞の居城だった平賀氏の山城。県史跡「平賀氏の遺跡」の一つ
- 白山城跡(広島県東広島市高屋町):平賀弘保が築いた城。白市の町を見下ろす
- 平賀氏墓所(広島県東広島市高屋町、明道寺跡):宝篋印塔や五輪塔など約40基が並ぶ一族の墓所
参考にした資料
平賀広相とは
平賀広相は、安芸の国衆・平賀氏の当主です。
頭崎城
平賀氏は、安芸の頭崎城や白山城を拠点としました。
毛利家の国衆
広相は、毛利元就と盟約を結び、毛利家の有力な国衆として仕えました。
評価
広相は、安芸の国衆・平賀氏を毛利家と結びつけ、家を守った当主です。
このイラストについて
このイラストは、厳島の鳥居が見える海辺で、軍配を手にした広相を描いています。
高い兜と軍配で、国衆を率いた当主の姿を表しました。
海と鳥居は、毛利家が勝利した厳島の戦いの舞台をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
安芸の一国人にすぎなかった毛利氏を、元就が一代で中国地方の覇者へ押し上げた。出雲の尼子氏と周防の大内氏という二大勢力に挟まれながら、次男元春を吉川家へ、三男隆景を小早川家へ送り込んで両家を一門化し、「毛利両川」と呼ばれる体制を作った。
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