しみち ひろよし
| 地域 | 中国 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 毛利家臣 |
| 大名家 | 毛利 |
| 家紋 | 一に三つ星 |
| 主武器 | 訓戒書・太刀 |
| 衣装・甲冑 | 重臣具足 |
| 武将タイプ | 「元就の師」・大忠臣 |
毛利元就の擁立・育成を一手に行い、毛利家の家臣団の結束を説いた『志道広良訓戒状』を残した伝説の名臣。
毛利家の一族
広良は、毛利家の一族である志道家の人物です。志道家は毛利家の庶流で、広良は毛利家の重臣として仕えました。
毛利家の執権
広良は、毛利家の政治の中心にあって、家中のまとめ役を務めました。
元就の家督相続
1523年、毛利家の当主だった幼い幸松丸が亡くなりました。このとき、毛利家の重臣たちの間で、誰を次の当主にするかが話し合われました。
元就の擁立
広良は、毛利元就を当主に迎えることを強く推した中心人物とされます。元就は、こうして毛利家の当主となりました。
元就の信頼
元就の家督相続を支えた広良は、元就から厚い信頼を寄せられたとされます。
隆元の後見
広良は、元就の嫡男である毛利隆元の後見役も務めました。
君は船、臣は水
広良は隆元に、主君を船、家臣を水にたとえて、主君と家臣が心を一つにすることの大切さを説いたと伝えられます。船は水がなければ進まず、水が荒れれば船は覆るという教えです。
君臣一体の考え
この教えは、主君が家臣を大切にし、家臣が主君を支えることで家が保たれるという考え方を示しています。
元就の勢力拡大
広良は、元就が安芸の国衆から中国地方の大大名へと成長していく時代を支えました。
長寿の重臣
広良は長寿で、元就の時代の長い期間にわたって毛利家を支えました。
最期
広良は1557年に亡くなったとされます。
口羽通良
広良の子である通良は、口羽家を継ぎました。通良は、のちに輝元の時代に「御四人」の一人として毛利家の政治を担いました。
毛利家の家中
元就の時代の毛利家は、一族や重臣たちがまとまって家を支えたことで知られます。広良は、その中心にいた人物の一人でした。
三本の矢の背景
元就が子どもたちに一族の結束を説いた話は、のちに「三本の矢」の逸話として知られるようになりました。広良が説いた君臣一体の考えも、こうした毛利家の気風と重なるものといえます。
君臣の教え
広良が説いたとされる「君は船、臣は水」の教えは、中国の古典に由来する考え方で、主君が民や家臣を大切にすべきことを説いたものです。
郡山城
毛利家の本拠であった郡山城は、安芸の吉田にあった山城です。広良は、この城を中心とする毛利家の政治を支えました。
元就の側近たち
元就の周りには、広良のほか、児玉就忠・福原貞俊など、毛利家を支える一族や重臣が多くいました。
広良の評価
広良は、元就の家督相続を支え、毛利家の執権として家中をまとめた重臣です。主君と家臣の結びつきを説いたその教えは、毛利家の発展の土台となりました。
このイラストについて
白い髪とひげの老人が装束姿で書状を手にし、毛利家の家紋を染めた旗を背にした姿です。
旗の三つの星の紋は、毛利家の家紋をイメージしています。手にした書状と年長の姿は、元就の家督相続を支え、長く毛利家の執権として家中をまとめた広良を表しています。顔立ちは想像によるものです。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
安芸の一国人にすぎなかった毛利氏を、元就が一代で中国地方の覇者へ押し上げた。出雲の尼子氏と周防の大内氏という二大勢力に挟まれながら、次男元春を吉川家へ、三男隆景を小早川家へ送り込んで両家を一門化し、「毛利両川」と呼ばれる体制を作った。
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