うだ よりただ
| 地域 | 近畿(紀伊・広) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 豊臣氏(秀長・秀保の重臣、のち秀吉の直臣)→ 西軍(関ヶ原) |
| 大名家 | 尾藤氏(のち宇多氏) |
| 家紋 | 不詳 |
| 主武器 | 不詳 |
| 衣装・甲冑 | 具足・陣羽織 |
| 武将タイプ | 縁で結ばれた忠義の将 |
宇多頼忠(うだ よりただ)は、安土桃山時代の武将で、豊臣秀長の重臣である。もとの姓は尾藤で、秀吉の古くからの家臣・尾藤知宣の弟とされる。紀伊の広城(和歌山県広川町)をまかされ、1万3千石ほどを知行したとみられる。娘が石田三成の妻となり、関ヶ原の戦いでは西軍として三成の居城・佐和山城を守って最期をとげた。宇田とも書く。生まれた年はわかっていない。
尾藤家の出身
頼忠は尾藤氏の出身で、兄とされる尾藤知宣とともに羽柴秀吉に仕え、近江の長浜城へ移ったとされる。天正12年(1584年)10月までには秀長の直臣となっていた。
紀伊の広城と熊野攻め
天正13年(1585年)の紀州攻めのあと、頼忠は和歌山城を支える城の一つ、紀伊国有田郡の広城をまかされた。知行は1万3千石ほどと考えられている。
天正14年(1586年)から天正17年(1589年)にかけては、桑山重晴・杉若無心・藤堂高虎らとともに熊野地方の平定に加わった。天正16年(1588年)には従五位下・下野守に任じられ、この年に毛利輝元が大和郡山城を訪れたときの記録にも「尾藤下野守」の名が見える。秀長の家中で、高虎に次ぐほど信頼されていたともいわれる。熊野での戦いは北山一揆(秀長の熊野攻め)でくわしく解説している。
兄の失脚と「宇多」への改姓
天正15年(1587年)、兄の知宣は九州攻めでの失敗から秀吉の怒りを買い、所領を没収された。頼忠はのちに姓を宇多(宇田)に改めているが、その時期や理由ははっきりしていない。兄の失脚が関係していたのかもしれない。
石田三成・真田昌幸との縁
頼忠の娘の一人は石田三成の妻となった。また、別の娘が真田昌幸の妻だったとする説もある。この説が正しければ、三成と昌幸は頼忠を通じて義理の兄弟だったことになり、関ヶ原で昌幸が西軍についた理由の一つとして語られることもある。
関ヶ原と佐和山城の落城
天正19年(1591年)に秀長が亡くなると豊臣秀保に仕え、文禄4年(1595年)に秀保が亡くなると秀吉の直臣に戻った。慶長3年(1598年)には子の頼次に家督を譲ったとされる。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、娘婿の三成が率いる西軍に加わり、三成の居城である近江の佐和山城(滋賀県彦根市)の守りについた。関ヶ原での本戦のあと、佐和山城は東軍に攻められ、9月18日に落城する。頼忠は高齢ながら戦い、城とともに最期をとげたと伝えられる。
同じ秀長の家臣でも、藤堂高虎や桑山重晴のように東軍についた者と、頼忠のように西軍についた者とで、その後の運命は大きく分かれた。くわしくは秀長の家臣は徳川の世で何をしたのかで紹介している。
宇多頼忠をめぐる人物
ゆかりの地
- 広城跡(和歌山県有田郡広川町):頼忠がまかされた城
- 佐和山城跡(滋賀県彦根市):娘婿・三成の居城。頼忠が最期をとげた城
- 大和郡山城(奈良県大和郡山市):主君・秀長の居城


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