ますだ もとよし
| 地域 | 中国 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 毛利家臣 |
| 大名家 | 毛利 |
| 家紋 | 丸に三ツ柏 |
| 主武器 | 太刀・行政書状 |
| 衣装・甲冑 | 黒塗具足 |
| 武将タイプ | 名家老・財政 |
益田藤兼の子。毛利輝元の重臣となり、関ヶ原の減封後に長州藩の巨大な財政再建を成功させた名家老。
石見の益田家
元祥は、石見の益田を本拠とした益田家の当主です。1558年に生まれました。益田家は、平安時代から石見に根を張る名門でした。
毛利家に従う
益田家は、毛利元就が石見に勢力を広げると、毛利家に従いました。
吉川元春の娘婿
元祥は、元就の次男・吉川元春の娘を妻に迎えました。益田家は、毛利家と固く結びつきました。
毛利家の戦い
元祥は、毛利家の一員として、織田家との戦いなどに加わりました。
豊臣政権のもとで
毛利家が豊臣秀吉に従った後も、元祥は毛利家の家臣として仕えました。
関ヶ原の戦い
1600年の関ヶ原の戦いで、毛利家は西軍の総大将となりましたが、西軍は敗れました。
毛利家の減封
戦後、毛利家は中国地方の8か国から、周防・長門の2か国に所領を大きく減らされました。
石見を離れる
元祥も、先祖代々の地である石見を離れ、毛利家とともに長門に移りました。
家康の誘い
伝承では、徳川家康は元祥に石見に残るよう誘ったとされますが、元祥は毛利家に従う道を選んだといわれます。
財政の立て直し
所領が大きく減った毛利家は、たいへん苦しい財政状況に陥りました。元祥は、その財政の立て直しに力を尽くしました。
検地と年貢
元祥は、検地を進めて年貢の取り立てを整えるなど、藩の財政の基礎を固めたとされます。
長州藩の家老
元祥は、長州藩の家老として藩の政治を担いました。益田家は、のちに永代家老の家となりました。
最期
元祥は1640年に亡くなりました。
益田家のその後
益田家は、江戸時代を通じて長州藩の重臣の家として続きました。幕末の禁門の変の責任を問われて切腹した益田親施(右衛門介)も、この益田家の当主です。
益田の町
益田家が本拠とした石見の益田(現在の島根県益田市)には、益田家ゆかりの城跡や寺、庭園が残されています。
益田氏館跡
益田家の館の跡は、現在の島根県益田市にあり、「益田氏城館跡」として国の史跡に指定されています。
雪舟とのゆかり
益田には、画僧の雪舟が作ったと伝えられる庭園が残されており、益田家が文化を大切にした家であったことを伝えています。
須佐
長州藩の家老となった益田家は、長門の須佐を治めました。
元祥の評価
元祥は、石見の名門益田家の当主として毛利家に仕え、関ヶ原の後は長州藩の苦しい財政を立て直した人物です。その働きは、長州藩が江戸時代を通じて続く基礎となりました。
このイラストについて
高い烏帽子をかぶった武将が帳面を手にし、米俵の積まれた蔵の並ぶ町を背にした姿です。
米俵の積まれた蔵と帳面は、関ヶ原の後、所領を減らされた長州藩の財政の立て直しに力を尽くした元祥をイメージしています。烏帽子の家紋は、毛利家の家紋をイメージしたものです。顔立ちは想像によるものです。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
安芸の一国人にすぎなかった毛利氏を、元就が一代で中国地方の覇者へ押し上げた。出雲の尼子氏と周防の大内氏という二大勢力に挟まれながら、次男元春を吉川家へ、三男隆景を小早川家へ送り込んで両家を一門化し、「毛利両川」と呼ばれる体制を作った。
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