あさひな やすとも
| 地域 | 遠江国(静岡県) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 今川家臣・掛川城主 |
| 大名家 | 今川氏 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 槍 |
| 衣装・甲冑 | 当世具足 |
| 武将タイプ | 主家に尽くした忠臣 |
朝比奈泰朝は、今川氏の重臣で遠江の掛川城主である。桶狭間の戦いのあとも今川氏真を支え、武田・徳川に攻められた氏真を掛川城に迎えて守り抜いた。今川家最後の忠臣とも呼ばれる。
掛川城と朝比奈氏
朝比奈氏は駿河の今川氏に仕えた重臣の家である。室町時代の終わり、今川氏は遠江へ勢力を広げるため、家臣の朝比奈泰凞に掛川城を築かせた。明応6年(1497)から文亀元年(1501)にかけてのことという。はじめの城は今の場所より東にあり、のちに今の龍頭山へ移された。
泰朝は朝比奈泰能の子で、天文7年(1538)の生まれとされる。父の泰能は今川義元を支えた重臣で、その妻は公家の中御門宣秀の娘で、義元の母・寿桂尼の姪にあたる。朝比奈家は今川家と深く結びついていたのである。
義元と桶狭間の戦い
泰朝は今川義元に従って各地で戦い、手柄を立てた。永禄3年(1560)、義元が尾張へ攻め込んだとき、泰朝は井伊直盛とともに織田方の鷲津砦を落とし、大高城を助けたとされる。しかし本隊が桶狭間で織田信長に敗れ、義元が討たれたため、兵を引いた。
その後は義元の子・今川氏真を支えた。永禄5年(1562)には、謀反を疑われた井伊直親を、氏真の命で討ったと伝わる。
掛川城の籠城
永禄11年(1568)、武田信玄が駿河へ攻め込み、氏真は駿府を追われた。武田と徳川は、今川の領地を東と西から攻め取ろうとしていたのである。多くの家臣が今川家を見限るなか、泰朝は氏真を掛川城に迎え入れた。今度は西から攻め込んできた徳川家康の軍が掛川城を囲んだ。このとき城にこもった者の中には、美濃斎藤家の旧臣・日根野弘就もいたとされる。
泰朝は半年近くにわたって城を守り続けた。永禄12年(1569)5月、家康と和睦して城を開いた。氏真は北条氏を頼って伊豆へ移り、戦国大名としての今川氏はここで終わった。
その後の泰朝
泰朝は氏真について伊豆へ行ったとされるが、その後のくわしい消息はわかっていない。北条氏に仕えたという話もあり、一族の朝比奈泰栄・泰澄は北条氏の家臣として武名を知られたという。泰朝の子孫は、徳川家臣の酒井忠次の家に仕えたともいわれる。
掛川城はのちに山内一豊の城となった。今の天守は平成6年(1994)に木で建て直されたものである。
ゆかりの地
- 掛川城(静岡県掛川市掛川):朝比奈氏が築き、泰朝が今川氏真を守って籠城した城
参考にした資料
朝比奈泰朝とは
朝比奈泰朝は、今川家の重臣で、遠江の掛川城の城主を務めた武将です。
桶狭間の戦い
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで、主君の今川義元は討たれました。泰朝も、この戦いに加わっていました。
今川氏真を迎える
永禄11年(1568年)、武田信玄が駿河に攻め込むと、泰朝は今川氏真を掛川城に迎えました。
評価
泰朝は、今川家が衰えていく中で最後まで主家を支えた忠臣です。掛川城の籠城は、その忠義を物語っています。
このイラストについて
このイラストは、雨の戦場で、槍を構える泰朝を描いています。
鋭い目つきと力強い構えで、主家のために戦った忠臣の気迫を表しました。
雨の降る陣と旗は、掛川城の籠城戦をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
足利将軍家の一門で、駿河の守護を務めた家。今川氏親は遠江を手に入れ、分国法「今川仮名目録」を定めた。
今川家の歴史と武将一覧を見る →

































