こだま なりひで
| 地域 | 安芸(草津) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 毛利家臣・毛利水軍 |
| 大名家 | 毛利家 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 焙烙玉・水軍 |
| 衣装・甲冑 | 当世具足 |
| 武将タイプ | 水軍型 |
児玉就英は、毛利水軍の将・児玉就方の子で、安芸の草津城を本拠とした武将である。天正4年(1576)の第1次木津川口の戦いで、織田方の水軍を破る戦いに加わった。父の跡を継いで草津城主となり、毛利氏の水軍を支えた。
父・児玉就方と草津城
就英の父・児玉就方は、毛利元就に仕えた武将である。天文23年(1554)に安芸国の草津城の城代となり、翌年の厳島の戦いで手柄を立てた。その後は毛利水軍の旗頭として、北九州や山陰を転戦した。
草津は広島湾に面した港で、毛利氏の水軍にとって大切な拠点であった。就英はこの草津城主の子として生まれた。生年は天文23年(1554)とも、天文13年(1544)ともいわれる。
児玉氏は毛利氏の家臣団のなかで、海の戦いを受け持つ家として重んじられた。毛利氏が中国地方の大大名になるうえで、瀬戸内海を押さえる水軍の力は欠かせなかった。
尼子再興軍との戦い
永禄12年(1569)、尼子勝久と山中幸盛が出雲に攻め入り、尼子家の再興をめざした。就英は父とともに毛利水軍を率いて出陣したとされる。翌年にも尼子方の討伐に出たという。
木津川口の戦い
天正4年(1576)、毛利氏は織田信長と戦う大坂の本願寺へ、兵糧を船で運び込もうとした。これを止めようとする織田方の水軍と、大坂の木津川口でぶつかった。第1次木津川口の戦いである。
就英は村上水軍などとともにこの戦いに加わった。毛利方は焙烙玉や焙烙火矢を使って織田方の船を焼き、大勝したと伝わる。その後、就英は淡路の岩屋城に入り、瀬戸内海の守りについたとされる。天正13年(1585)には紀伊の雑賀攻めにも加わったという。
この勝利によって、本願寺への補給はしばらく続けられた。信長はのちに九鬼嘉隆に大きな船を造らせ、毛利水軍に対抗したといわれる。
草津城主としての晩年
天正14年(1586)に父・就方が亡くなると、就英は家督を継いで草津城主となった。天正16年(1588)、毛利輝元が上洛する途中で草津に立ち寄った際には、就英がもてなしたという記録がある。
輝元が広島城を築き始めると、就英には別の領地が示されたが、草津を離れることをしぶったと伝わる。就英は慶長元年(1596)6月11日に没したとされる。子に元方・元昌がいたとされる。
ゆかりの地
- 草津城跡(広島県広島市西区):児玉就方・就英父子の居城。毛利水軍の拠点
参考にした資料
児玉就英とは
児玉就英は、毛利家の水軍を率いた武将です。父・児玉就方のあとを継ぎました。
毛利家の水軍
毛利家の水軍は、児玉家などの直属の水軍と、村上水軍などの海の勢力からなっていました。
草津城
就英は、安芸の草津城を本拠としました。草津は、広島湾に面した港の町です。
評価
就英は、毛利家の水軍の将として瀬戸内の海で戦い、本願寺への兵糧運びなどで活躍した武将です。
このイラストについて
このイラストは、船の浮かぶ海を背に、槍を手に立つ就英を描いています。
紋の入った甲冑と落ち着いた顔つきで、水軍を率いた武将の姿を表しました。
海に浮かぶ船と旗は、毛利家の水軍をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
安芸の一国人にすぎなかった毛利氏を、元就が一代で中国地方の覇者へ押し上げた。出雲の尼子氏と周防の大内氏という二大勢力に挟まれながら、次男元春を吉川家へ、三男隆景を小早川家へ送り込んで両家を一門化し、「毛利両川」と呼ばれる体制を作った。
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