ももち さんだゆう
| 地域 | 東海・近畿 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 伊賀郷士 |
| 大名家 | 伊賀郷士 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 忍び刀・煙術具 |
| 衣装・甲冑 | 武骨忍び具足 |
| 武将タイプ | 伝承上の忍者(モデルは百地丹波とされる) |
江戸時代の読み本で石川五右衛門の忍術の師として登場し、立川文庫で伊賀流忍術の祖とされた伝承上の忍者。実在のモデルとして、天正伊賀の乱で敗れた伊賀の土豪・百地丹波守が挙げられる。
伝承の忍者・百地三太夫
百地三太夫は、伊賀流忍術の祖として知られる忍者である。ただし、辞典は「伝承上の忍者」とする。寛文年間(1661〜73)ごろの読み本『賊禁秘誠談』に、伊賀の郷士で石川五右衛門の忍術の師として登場する。大正期に人気を集めた立川文庫では伊賀流忍術の祖とされ、霧隠才蔵も弟子として描かれた。今日の三太夫像の多くは、こうした読み物から生まれたものである。
伊賀流忍者博物館も、三太夫の名は史実としては見いだせないとしている。一方で、名張の竜口は伊賀猿楽の本拠地で、白山神社の棟札に10人の太夫衆の名があるなど「太夫」を名のる者が多かった。このため、まったくの創作とはいえないとする説もある。
実在の百地丹波
史実上で三太夫に近い人物とされるのが、百地丹波守である。天正9年(1581)の織田信長による伊賀攻めで敗れた土豪として知られる。江戸時代に書かれた『伊乱記』には、天正伊賀の乱に加わった百地一族として百地新之丞・同太郎左衛門・喰代の百地丹波の名が見える。ただし『伊乱記』も後世の軍記である。
百地氏は室町時代に名張の「モモジ」を拠点とし、その地名から百地を称したと考えられている。伊賀竜口(名張市)と大和竜口(奈良県宇陀市室生)の境にある通称「城山」に砦を構え、南伊賀一帯に力を持ったとされる。北伊賀の喰代(伊賀市)にも百地砦跡が残る。
天正伊賀の乱
戦国時代の伊賀では、国人・地侍が惣国一揆を結んで自治を保っていた。天正9年9月、信長の命を受けた織田信雄の軍が伊賀に攻め込み、国内の城館や寺社はことごとく破壊された。百地丹波が伊賀衆の中心として抗戦したという話は広く知られるが、その具体的な行動を確かな史料で追うことは難しい。
喰代の百地砦跡には、忍者が修行したとされる堀跡(丸型池)や空堀、妻と愛人にまつわる悲しい伝承が残る「式部塚」がある。石川五右衛門がここで学んだという話も、この地に伝わる伝承の一つである。
ゆかりの地
- 百地砦跡(伊賀市喰代):百地丹波守の砦跡と伝わる。堀跡・空堀や式部塚が残る
- 百地氏の城跡(名張市竜口):伊賀と大和の境の城山に百地丹波の城があったとされる




















