ひとつやなぎ なおすえ
| 地域 | 東海 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 豊臣家臣 |
| 大名家 | 豊臣 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀 |
| 衣装・甲冑 | 金箔押具足 |
| 武将タイプ | 勇猛・悲壮 |
美濃出身の豊臣秀吉の家臣で、通称は市介。兵糧奉行・普請奉行を務め、天正17年(1589)に美濃軽海西城主となった。天正18年(1590)の小田原攻めでは伊豆山中城攻めの先鋒を務め、銃弾を受けて戦死した。
秀吉に仕えた美濃の武将
一柳直末(ひとつやなぎ なおすえ)は織豊時代の武将である。美濃の出身で、一柳直高の子とされる。通称は市介(市助とも書く)、官途は伊豆守。生年は天文22年(1553)とする説と、天文15年(1546)とする説がある。
直末は元亀元年(1570)から羽柴秀吉に仕えた。家伝によれば、のちに黄母衣衆の一人に選ばれた。母衣とは背に負う布で、黄母衣衆は秀吉の側近から選ばれた使番・親衛の武士である。
奉行と城主
直末は兵糧奉行や普請奉行を務めた。兵糧奉行は軍の食料の調達と輸送を、普請奉行は城や陣の工事を担う役である。秀吉の播磨攻めにも従い、三木城の別所長治を攻めた三木合戦で働いて知行を得たとされる。
天正13年(1585)ごろに美濃大垣城主となったとされ、天正17年(1589)には美濃軽海西城(岐阜県本巣市)の城主となった。秀吉の近くに仕えた者が、美濃の要地を任されたことになる。
山中城攻めでの戦死
天正18年(1590)、秀吉は小田原の北条氏を攻めた。3月29日の明け方、豊臣秀次を大将とする軍勢が、箱根の西の守りである伊豆山中城(静岡県三島市)を攻めた。山中城は北条氏が秀吉軍に備えて改修を進めていた城で、松田康長らが守っていた。直末はこの戦いで先鋒を務め、胸に銃弾を受けて戦死した。山中城はその日の正午過ぎに落ちた。
秀吉は直末の死を聞いて箸を取り落とし、3日間嘆き悲しんだと伝えられる。首は長久保村(静岡県長泉町)に、胴は箱根西坂の笹原新田に葬られたという。墓はのちに山中城跡の近くの宗閑寺に移された。弟の直盛は兄の死後も兵をまとめて戦ったとされる。山中城跡は国の史跡で、北条氏の城に特徴的な障子堀(堀の底を畝で仕切った堀)が見られる。
ゆかりの地
- 山中城跡(静岡県三島市):直末が先鋒を務めて戦死した北条方の城
- 宗閑寺(静岡県三島市):元禄11年(1698)に直末の墳墓が移され、のちに石碑も建てられた
- 長久保(静岡県長泉町):直末の首が葬られたと伝わる地
参考にした資料
一柳直末とは
一柳直末は、美濃の出身で、秀吉に仕えた武将です。
秀吉の奉行
直末は、秀吉の奉行として働き、各地の政務にも関わりました。
大垣城主
直末は、美濃の大垣城などを任されたとされます。
山中城攻め
天正18年(1590年)、小田原攻めの中で、直末は伊豆の山中城を攻め、討死しました。秀吉はその死を深く悲しんだと伝えられます。
評価
直末は、秀吉の信頼の厚い家臣として奉行と城主を務め、小田原攻めで命を落とした武将です。その家は、弟の直盛が受け継ぎました。
このイラストについて
このイラストは、陣の旗と兵を背に立つ直末を描いています。
金色の甲冑と落ち着いた顔つきで、秀吉の信頼の厚かった武将の姿を表しました。
霧の立つ山と兵の列は、山中城攻めの陣をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
尾張の百姓の家に生まれたとされる羽柴(豊臣)秀吉が、織田信長に仕えて一代で築いた家。本能寺の変の後、山崎の戦いで明智光秀を討ち、清洲会議と賤ヶ岳の戦いを経て織田家中の主導権を握った。1585年に関白となり、翌年には朝廷から「豊臣」の姓を賜っている。
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