太田資正(三楽斎) | 太田道灌の子孫で岩付城主。生涯「反北条」を貫き、犬を伝令に使ったと伝わる関東の名将

太田資正のイラスト(イメージ)

おおた すけまさ

地域関東(武蔵・岩付、常陸・片野)
所属勢力・属性太田氏(岩付城主)→ 佐竹氏の客将
大名家太田家
家紋桔梗
主武器采配
衣装・甲冑具足・陣羽織
武将タイプ反骨の名将

太田資正(おおた すけまさ)は、江戸城を築いた太田道灌の子孫で、武蔵の岩付城(埼玉県さいたま市岩槻区)の城主である。出家後は三楽斎(さんらくさい)と名のった。大永2年(1522年)に生まれ、天正19年(1591年)に70歳で亡くなった。関東を広げる北条家に生涯抵抗し、上杉謙信や佐竹義重と結んで戦い続けた。

3行でわかる太田資正
  • 太田道灌の子孫で、岩付城を本拠とした
  • 上杉謙信とともに北条家と戦ったが、北条方についた子に岩付城を追われた
  • 常陸の佐竹家に身を寄せ、片野城を拠点に北条家への抵抗を続けた
目次

反北条の武将

資正は扇谷上杉家の家臣・太田家に生まれ、岩付太田家を継いだ。主家の扇谷上杉家は天文15年(1546年)の河越夜戦で北条家に滅ぼされたが、資正は北条家に屈せず、各地で抵抗した。

永禄3年(1560年)、上杉謙信(長尾景虎)が関東に出陣すると、資正はこれに加わり、北条家と戦った。

岩付城を追われる

永禄7年(1564年)、第二次国府台合戦で里見家とともに北条家に敗れたのち、北条家に近づいた長男の氏資によって、資正は岩付城を追われた。

その後、資正は常陸の佐竹義重を頼り、片野城(茨城県石岡市)を拠点に、なおも北条家と戦い続けた。資正は犬を訓練して城と城の連絡に使った「軍用犬」の話でも知られるが、これは伝承である。

北条家の滅亡を見届ける

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐で北条家は滅んだ。資正は秀吉の陣をおとずれたと伝わり、長年戦ってきた北条家の最後を見届けた。翌天正19年(1591年)に亡くなった。

太田資正をめぐる人物

  • 祖先:太田道灌
  • 子:太田氏資(長男)/梶原政景(次男)
  • ともに戦った相手:上杉謙信/佐竹義重
  • 戦った相手:北条氏康/北条氏政

ゆかりの地

  • 岩槻城跡(岩槻城址公園)(さいたま市岩槻区):資正の本拠
  • 片野城跡(茨城県石岡市):佐竹家に身を寄せたあとの拠点

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