ふるた しげなり
| 地域 | 東海・近畿 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 豊臣・徳川系 |
| 大名家 | 豊臣 |
| 家紋 | 丸に三ツ引き |
| 主武器 | 茶器・陣太刀 |
| 衣装・甲冑 | 数寄者衣装・具足 |
| 武将タイプ | 「古田織部」・数寄者 |
千利休の弟子で「織部好み」を創始した大名茶人。大坂の陣において豊臣方との内通を疑われ切腹。「古田織部」・数寄者と評され、周囲からの信頼も厚かったと伝わる。
- 天文13年(1544年)ごろ、美濃に生まれる。信長・秀吉に仕え、天正13年(1585年)に従五位下・織部正となったことから「古田織部」と呼ばれる
- 千利休の高弟で、利休の死後は「天下一」の茶人とされた。わざと歪ませた「織部好み」の器は、織部焼として今に伝わる
- 徳川秀忠の茶の湯指南役も務めたが、大坂夏の陣で豊臣方に内通した疑いをかけられ、慶長20年(1615年)に伏見で自刃
織部好みの大名茶人・古田重然
古田重然(ふるた しげなり)は、千利休の高弟で、「織部好み」と称される独自の茶の湯を創始した大名茶人です。古田織部(ふるた おりべ)の名で知られますが、大坂の陣において豊臣方との内通を疑われ、切腹に追い込まれました。
利休の高弟
古田重然は、茶聖・千利休に学んだ高弟の一人でした。武将でありながら茶の湯に深く傾倒し、利休の死後は天下一の茶人として、その地位を継ぐ存在となります。
織部好みの創始
古田重然は、利休の静かな「わび」の茶とは異なる、大胆で自由な美意識を打ち出しました。ゆがみやひずみを積極的に取り入れた斬新な茶器や作庭は「織部好み」と呼ばれ、後世の茶の湯や焼き物に大きな影響を与えます。今日に伝わる「織部焼」も、その名にちなむものです。
大坂の陣と切腹
徳川の世となり、古田重然は将軍家の茶の湯の師範を務めるほどの地位にありました。しかし慶長20年(1615年)の大坂の陣において、豊臣方との内通を疑われ、弁明することなく切腹に追い込まれてしまいます。古田重然の生涯は、織部好みの美を創始した大名茶人でありながら、内通の疑いに散った、その光と影を今に伝えています。
利休の弟子から「天下一」の茶人へ
織部は千利休に茶を学んだ利休七哲の一人である。天正19年(1591年)、利休が秀吉の怒りを買って堺へ下るとき、細川忠興とともに淀の船着き場で見送ったという話が伝わる。
利休の死後、織部は茶の湯の第一人者となった。利休が静かで簡素な美を求めたのに対し、織部は形をわざと歪ませたり、大胆な文様を入れたりした器を好んだ。この「織部好み」は美濃の窯で焼かれた織部焼として広まり、後の焼き物に大きな影響を与えている。
大名たちの茶の師
関ヶ原では徳川方につき、慶長15年(1610年)ごろからは二代将軍・徳川秀忠に茶の湯を指南した。弟子には、のちに遠州流を開く小堀遠州(政一)、書や陶芸で知られる本阿弥光悦、上田宗箇のほか、伊達政宗・佐竹義宣・浅野幸長など多くの大名がいた。小堀遠州の父・小堀正次は、豊臣秀長の家老である。
謎に包まれた最期
慶長20年(1615年)、大坂夏の陣のさなか、織部は豊臣方と通じて京都に火を放とうとした、あるいは秀忠の暗殺を企てたという疑いをかけられた。具体的な中身はよくわかっていない。織部は一言も弁明せず、6月11日に伏見の屋敷で自刃したと伝わる。子の重広も処罰され、古田家は絶えた。
古田織部をめぐる人物
ゆかりの地
- 興聖寺(織部寺)(京都市上京区):織部が開基となった寺。墓所がある
- 古田織部美術館(京都市北区):織部の書状や茶道具などを展示
- 道の駅「織部の里もとす」・古田織部展示館(岐阜県本巣市):本巣市は織部の生誕地を市内の山口城とする(出身地には諸説ある)
- 大徳寺三玄院(京都市北区):墓所とされるもう一つの寺
この人物をもっと知る本
- 【新書】諏訪勝則『古田織部 美の革命を起こした武家茶人』(中公新書):武将としての経歴と茶人としての業績を一冊でたどれる
- 【漫画】山田芳裕『へうげもの』(講談社):織部を主人公にした戦国漫画。数寄に生きた武将の姿を大胆に描く(全25巻)








































