小野木重勝 | 田辺城攻めを率いた福知山城主

小野木重勝のイラスト(イメージ)

おのぎ しげかつ

地域近畿
所属勢力・属性豊臣家臣
大名家豊臣
家紋―
主武器太刀・采配
衣装・甲冑塗具足
武将タイプ勇猛・悲壮

豊臣秀吉の古参家臣で、丹波福知山城主。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属し、細川幽斎の籠もる丹後田辺城攻めの総大将を務めた。西軍の敗北後、細川忠興に福知山城を攻められて降伏し、丹波亀山で自害した。

目次

秀吉の古参家臣

小野木重勝は、豊臣秀吉に仕えた武将・大名である。名は重次・公郷(きみさと)などとも伝わる。官途は縫殿助(ぬいのすけ)。出身は丹波国の六人部(福知山市)とする説がある。

秀吉が近江長浜城主であった頃から仕え、天正元年(1573年)に知行を与えられたとされる。のちに黄母衣衆(秀吉の側近の使番)に加えられた。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い、天正15年(1587年)の九州攻めに従った。天正13年(1585年)には従五位下・縫殿助に任じられた。この官名から「小野木縫殿助」と呼ばれることが多い。

福知山城主

天正15年頃、重勝は丹波福知山城の城主となった。福知山城は、明智光秀が丹波平定の後に整えた城である。丹波北部の由良川沿いにあり、山陰道をおさえる位置にある。

文禄元年(1592年)からの文禄の役では朝鮮に渡り、晋州城の攻撃に加わった。文禄3年(1594年)には3万1千石を領し、のちに4万石になったとされる。

田辺城攻めと最期

慶長5年(1600年)7月、石田三成らが徳川家康に対して兵を挙げた。丹波・但馬の大名の多くは西軍についた。

重勝も西軍に属した。丹後の田辺城(舞鶴市)には、東軍についた細川忠興の父・幽斎が籠もっていた。重勝は西軍の総大将として、約1万5000の軍勢でこれを囲んだ。幽斎は古今伝授(『古今和歌集』の解釈の秘伝)を受け継ぐ人物であった。その死を惜しんだ朝廷の働きかけで講和が成り、9月に城は明け渡された。田辺城の攻防はおよそ2か月に及び、囲んでいた軍勢は関ヶ原の本戦に加われなかったとされる。

同年9月15日、関ヶ原の本戦で西軍は敗れた。領国に戻った細川忠興は福知山城を攻めた。重勝は降伏して城を明け渡し、のち丹波亀山で自害した。首は京の三条河原にさらされたとされる。

ゆかりの地

  • 福知山城(京都府福知山市):重勝が天正15年頃から城主を務めた城。
  • 田辺城跡(京都府舞鶴市):関ヶ原の戦いの際、重勝らが囲んだ細川幽斎の籠城地。

参考にした資料

小野木重勝とは

小野木重勝は、秀吉に古くから仕えた家臣で、丹波の福知山城主となりました。

福知山城

福知山城は、もとは明智光秀が整えた城です。のちに重勝が城主となりました。

田辺城攻め

慶長5年(1600年)、重勝は西軍として、細川幽斎の守る丹後の田辺城を攻めました。

最期

関ヶ原ののち、重勝は東軍に攻められ、自害したと伝えられます。

評価

重勝は、秀吉の古参の家臣として福知山を治め、関ヶ原の戦いで西軍について命を落とした武将です。

このイラストについて

このイラストは、川と城を背に、采配を振るう重勝を描いています。

大きな前立ての兜と采配を掲げる姿で、兵を率いて戦った武将の勢いを表しました。

川と城は、重勝が治めた福知山の町をイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

豊臣家

尾張の百姓の家に生まれたとされる羽柴(豊臣)秀吉が、織田信長に仕えて一代で築いた家。本能寺の変の後、山崎の戦いで明智光秀を討ち、清洲会議と賤ヶ岳の戦いを経て織田家中の主導権を握った。1585年に関白となり、翌年には朝廷から「豊臣」の姓を賜っている。

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