浅野幸長 | 浅野長政の長男。朝鮮の役・蔚山城の戦いで加藤清正とともに死闘を演じ、関ヶ原では東軍の主力として先陣を切った

あさの よしなが

地域近畿・九州
所属勢力・属性浅野氏
大名家浅野氏
家紋丸に違い鷹の羽
主武器大槍・陣太刀
衣装・甲冑金箔押具足
武将タイプ武断派・勇猛

浅野長政の長男。朝鮮の役・蔚山城の戦いで加藤清正とともに死闘を演じ、関ヶ原では東軍の主力として先陣を切った。

目次

浅野長政の長男

幸長は豊臣秀吉の義弟にあたる浅野長政の長男として生まれました。父長政は秀吉の正室北政所の妹を妻とし、五奉行の一人として豊臣政権を支えました。

若き日の出陣

幸長は若い頃から父とともに戦いに加わり、小田原征伐などに参陣しました。豊臣家の親族として、若くして重要な役割を担いました。

甲斐府中の大名

父長政とともに甲斐府中の領地を与えられ、幸長は東国の要地を治める立場となりました。

朝鮮出兵と蔚山城

朝鮮出兵では、幸長は蔚山城で明・朝鮮の大軍に囲まれ、加藤清正とともに苦しい籠城戦を戦い抜きました。この経験は、清正との深い絆を生みました。

武断派の一人

幸長は加藤清正・福島正則らとともに、戦場で戦う武断派の武将として知られました。石田三成ら政務を担う奉行衆とは考え方の違いがありました。

三成襲撃事件

1599年、前田利家が亡くなると、幸長は清正・正則らとともに石田三成を襲撃しようとしました。三成は家康のもとに逃れ、この事件をきっかけに三成は政権の中枢から退くことになります。

関ヶ原の戦い

1600年の関ヶ原の戦いでは、幸長は東軍として戦い、岐阜城攻めにも加わりました。

紀伊和歌山37万石

関ヶ原の功により、幸長は紀伊和歌山37万石の大名となりました。和歌山城を本拠として、紀伊の統治にあたりました。

豊臣家への思い

幸長は徳川方として戦いながらも、豊臣家への思いを持ち続けた武将でした。徳川家と豊臣家の間がうまくいくよう、気を配っていたとされます。

二条城の会見

1611年、家康と豊臣秀頼が京都の二条城で会見した際、幸長は加藤清正とともに秀頼の身辺を守ったと伝えられます。

若すぎる死

幸長は1613年、38歳で亡くなりました。清正もその2年前に亡くなっており、豊臣家を支える有力な大名が相次いで世を去ったことになります。

浅野家のその後

幸長には男子がなく、弟の長晟が跡を継ぎました。浅野家はのちに安芸広島に移り、広島藩として明治まで続きました。

赤穂浅野家

浅野家の分家からは、のちに赤穂事件で知られる赤穂藩の浅野家も出ています。

豊臣恩顧の大名として

幸長は、徳川の時代に入っても豊臣家とのつながりを大切にした大名の一人でした。その早すぎる死は、豊臣家の運命にも影響を与えたといわれます。

和歌山城

幸長が本拠とした和歌山城は、豊臣秀長の時代に築かれた城で、幸長の時代にさらに整備されました。のちに徳川家の紀州藩の本拠となり、御三家の城として知られるようになります。

加藤清正との友情

蔚山城でともに戦った幸長と清正は、深い信頼で結ばれていました。二人がともに豊臣秀頼を守ろうとしたことは、豊臣恩顧の大名たちの思いを象徴する話として伝えられています。

幸長の評価

幸長は、蔚山城の籠城戦で名を上げ、紀伊の大名として豊臣と徳川の間で生きた武将です。その生涯は、豊臣恩顧の大名たちが直面した難しい立場をよく表しています。

このイラストについて

甲冑姿の若武者が、雪の舞う中で槍を構え、炎の上がる城を背にして戦う姿です。

背景の燃える城と雪は、幸長が加藤清正とともに戦った朝鮮出兵の蔚山城の籠城戦をイメージしています。蔚山城の戦いは冬の厳しい寒さの中で行われ、城兵は飢えと寒さに苦しみながら明・朝鮮の大軍に耐えました。顔立ちや胸の飾りは想像によるものです。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

浅野家

豊臣秀吉の正室北政所の妹を妻とした浅野長政に始まる家。長政は秀吉の義弟として信頼され、五奉行の一人となった。

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