だて まさむね
| 地域 | 東北 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 伊達氏 |
| 大名家 | 伊達氏 |
| 家紋 | 竹に雀 |
| 主武器 | 陣太刀・鉄砲 |
| 衣装・甲冑 | 黒漆五枚胴具足 |
| 武将タイプ | 野心・英明 |
伊達政宗は出羽・陸奥にまたがる名門・伊達氏の当主・伊達輝宗の嫡男として生まれた。幼少期に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、後世「独眼竜」の異名で呼ばれるようになる。18歳で家督を継ぐと、周辺の大名を次々と圧倒し、蘆名氏を摺上原の戦いで滅ぼすなど、南奥州における勢力を急速に拡大していった。
豊臣秀吉による小田原征伐の際には参陣が遅れて処罰を覚悟したが、白装束に身を包んで謁見に臨むという劇的な演出で秀吉の心証を和らげ、辛くも改易を免れたという逸話が伝わる。奥州仕置による領地削減や、朝鮮出兵、関ヶ原の戦いなど、時代の転換点をしたたかに乗り越え、最終的には徳川家康に接近して仙台62万石の礎を築いた。
政宗は野心家として知られる一方、南蛮貿易にも強い関心を示し、家臣の支倉常長をローマへ派遣する慶長遣欧使節を派遣するなど、国際的な視野を持つ大名でもあった。仙台城下の町づくりや治水、産業振興にも力を入れ、東北地方随一の大藩として仙台藩の基礎を築き上げた統治者としての手腕も高く評価される。
文化面でも和歌や能楽を愛好し、洗練された美意識を持つ人物として知られた。晩年は徳川将軍家からも重用され、江戸城の普請にも協力するなど、天下人との良好な関係を保ちながら長寿を全うした。
1636年に70歳で没するまで、戦国乱世から江戸初期の泰平の世への激動を生き抜いた政宗は、独眼竜という異名にふさわしい豪胆さと、時流を読む聡明さを兼ね備えた東北随一の名将として、今なお仙台の地で深く敬愛されている。
政宗の私生活では、正室・愛姫(陽徳院)との仲は当初冷え込んでいたとも伝わるが、後には深い信頼関係を築き、長女・五郎八姫は徳川家康の六男・松平忠輝に嫁いでいる。幼少期の疱瘡による失明は生涯のコンプレックスであったとされ、自らの肖像画には両目を描かせるよう命じたという逸話も残る。伊達家の家臣団統制にも力を注ぎ、片倉小十郎景綱をはじめとする有能な重臣たちに支えられ、東北随一の統治体制を築き上げた。
晩年の政宗は江戸参勤や江戸城普請への協力を通じて徳川将軍家との良好な関係を維持し、三代将軍・家光からも「伊達の親父殿」と慕われるほどの信頼を得ていたと伝わる。慶長遣欧使節による南蛮貿易構想は江戸幕府の鎖国政策により実を結ばなかったものの、東北地方に開明的な気風をもたらした先駆者としての評価は高く、仙台城下は東北随一の学問・文化の中心地として発展を遂げた。
仙台藩の礎を築くにあたり、政宗は城下町の区画整理や河川改修、新田開発を積極的に推進し、後の仙台平野の穀倉地帯としての発展の基盤を作り上げた。また能楽や茶道、和歌にも通じた文化人としての一面を持ち、家臣たちにも高い教養を求めたことから、仙台藩は江戸期を通じて学問が盛んな藩風を築くこととなった。
豊臣秀吉政権下では、朝鮮出兵に際して伊達家独自の意匠を凝らした煌びやかな軍装で行軍し、その派手な出で立ちが「伊達者」という言葉の語源になったという逸話も広く知られている。徳川政権下では大坂の陣にも参陣し、江戸幕府の重要な外様大名として遇されながらも独自の気風を保ち続け、仙台藩は明治維新に至るまで東北随一の雄藩としての地位を保ち続けた。

