みやべ けいじゅん
| 地域 | 近畿・中国 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 豊臣家臣 |
| 大名家 | 豊臣 |
| 家紋 | 丸に三ツ柏 |
| 主武器 | 太刀・数珠 |
| 衣装・甲冑 | 僧威具足 |
| 武将タイプ | 僧侶・奉行 |
比叡山の僧侶から秀吉の家臣へ。鳥取城攻め後の鳥取城代を務め、山陰地方の平定と内政で大功を立てた。
目次
僧侶から秀吉の家臣へ
宮部継潤(みやべ けいじゅん)は、天下人・豊臣秀吉に仕えた武将です。もとは比叡山で修行した僧侶という異色の経歴をもち、その才を見込まれて武将へと転じ、秀吉のもとで大名にまで出世しました。
鳥取城攻め
天正9年(1581年)、羽柴秀吉は、毛利方の拠点・鳥取城を兵糧攻めにしました。城を包囲して兵糧を断つこの「鳥取の飢え殺し」は、秀吉の兵糧攻めの中でも壮絶なものとして知られます。宮部継潤も、この鳥取城攻めに加わりました。
鳥取城代として山陰を平定
鳥取城が落ちたのち、宮部継潤はその鳥取城代を務め、山陰地方の平定と統治にあたりました。最前線の要地を任されたことは、秀吉からの厚い信任を物語ります。継潤は、軍事だけでなく内政にも手腕を発揮し、大功を立てました。
因幡の大名として
宮部継潤は、その功によって因幡(現在の鳥取県東部)の大名となりました。僧侶から身を起こして大名にまで登りつめたその生涯は、実力次第で出世できた戦国という時代を象徴しています。継潤の生涯は、比叡山の僧から秀吉の家臣へと転じ、山陰の平定と統治に大功を立てた異色の武将の姿を今に伝えています。










































