いずみだ しげみつ
| 地域 | 陸奥国名取郡(宮城県)→磐井郡(岩手県) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 伊達家臣 |
| 大名家 | 泉田氏 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | ― |
| 衣装・甲冑 | ― |
| 武将タイプ | 猛将 |
泉田重光は伊達政宗に仕えた武将で、名取郡岩沼城(宮城県岩沼市)の城主であった。天正16年(1588)の大崎合戦では伊達軍の大将の一人として出陣したが、敗れて自ら人質となり味方を救った。のちに磐井郡薄衣へ移り、泉田家は仙台藩の重臣として続いた。
岩沼城主の泉田家
重光は享禄2年(1529)、岩沼城主・泉田景時の次男として生まれたとされる。泉田氏は二階堂氏の一族ともいわれ、伊達氏の家臣となった家である。兄の戦死を受けて家督を継いだとも伝わる。
岩沼城は鵜ヶ崎城とも呼ばれる。重光は安芸守を名乗り、この城の城主をつとめた。政宗が家を継いでからは重く用いられ、伊達家中の「一家」という高い家格を与えられたとされる。主に伊達領の北の方面の戦いで軍を率いた。
大崎合戦で人質となる
天正16年(1588)1月、政宗は大崎氏の領地に軍を送った。重光は留守政景らとともに大将に任じられた。軍議では、すぐに攻めるべきだという重光と、政景らの意見が分かれたと伝わる。
2月2日、先陣の泉田勢は成瀬川を渡り、中新田城に迫った。しかし城を落とせず、近くの新沼城へ退いた。伊達軍の主力は新沼城に閉じこめられる形となった。2月23日、重光は長江月鑑とともに人質となり、城にこもった兵を救い出した。重光はしばらく敵方にとどめ置かれたのち、伊達家に戻ることを許されたとされる。
薄衣への移封
天正19年(1591)、政宗は豊臣秀吉の奥州仕置によって岩出山城へ移された。重光も長く治めた岩沼を離れ、磐井郡薄衣(岩手県一関市)へ所領を替えられた。重光は慶長元年(1596)に亡くなったともいわれる。
泉田家は亘理重宗の子・重時を養子に迎えたとされる。その後も泉田家は仙台藩の「一家」として薄衣を治めた。薄衣村の知行目録や家臣の記録も残り、家は幕末まで続いた。
岩沼城のその後
江戸時代になると、岩沼城は一国一城令のもとで岩沼要害として残された。万治3年(1660)から天和元年(1681)までは、伊達忠宗の三男・宗良が岩沼藩を立て、岩沼城(岩沼陣屋)と呼ばれた。いまは鵜ヶ崎公園となっている。
重光は晩年に岩沼を離れたため、地元でもあまり知られてこなかった。令和4年(2022)には岩沼市民図書館で重光を取り上げた企画展が開かれ、その生涯に光が当てられた。
ゆかりの地
- 鵜ヶ崎城跡(宮城県岩沼市栄町):重光が城主をつとめた岩沼城。現在は鵜ヶ崎公園
参考にした資料
泉田重光とは
泉田重光は、伊達政宗に仕えた武将で、岩沼城の城主です。
大崎合戦
天正16年(1588年)の大崎合戦で、重光は伊達軍の将として出陣しました。
人質となる
伊達軍が敗れたのち、重光は大崎方の人質となりました。
薄衣への移り
重光は、のちに陸奥の薄衣に移されました。
評価
重光は、伊達家の武将として大崎合戦に出陣し、人質となる苦しい経験をした人物です。
このイラストについて
このイラストは、陣と山を背に、巻物を手にした年配の重光を描いています。
白髪の顔と紺色の甲冑で、伊達家に仕えた武将の落ち着きを表しました。
山と砦は、重光が出陣した大崎合戦の戦場をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
陸奥国伊達郡を発祥とする家。伊達稙宗と子の晴宗が争った天文の乱(1542〜48年)で一時は勢力を弱めたが、晴宗・輝宗の代に立て直した。
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