ほうじょう うじかつ
| 地域 | 関東(相模・下総) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 北条家の一門(玉縄北条家)、玉縄城主。のち徳川家康の家臣で下総岩富1万石の大名 |
| 大名家 | 北条家 → 徳川家 |
| 家紋 | 三つ鱗(北条家) |
| 主武器 | 采配・槍 |
| 衣装・甲冑 | 当世具足 |
| 武将タイプ | 生き残りの名門・決断の人 |
北条氏勝(ほうじょう うじかつ)は、北条家の一門・玉縄北条家の当主で、相模の玉縄城(いまの神奈川県鎌倉市)の城主です。「地黄八幡」で知られた猛将・北条綱成の孫にあたります。天正18年(1590)の小田原征伐では、援軍の将として箱根の山中城に入りましたが、城が落ちる直前に脱出。玉縄城に戻ったのち、徳川家康の説得に応じて城を開きました。その後は家康の家臣となり、下総岩富(いまの千葉県佐倉市)1万石の大名として生き残っています。北条家が滅んだあと、大名として家を残した数少ない北条一門の一人です。
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北条氏勝の早見表
| 生没年 | 永禄2年(1559)ごろ〜慶長16年(1611)。享年53 |
|---|---|
| 家系 | 祖父・北条綱成、父・北条氏繁、兄・北条氏舜 |
| 官途 | 左衛門大夫(玉縄北条家代々の名のり) |
| 居城 | 玉縄城 → 下総岩富城 |
| 主君 | 北条氏政・氏直 → 徳川家康・秀忠 |
| 石高 | 下総岩富1万石(岩富藩の初代) |
| おもな戦い | 天正壬午の乱(黒駒の戦い)、下野の皆川城攻め、山中城の戦い、関ヶ原の戦い |
玉縄北条家 ― 「地黄八幡」の家
玉縄北条家は、北条家の分家のなかでも特に重んじられた家です。祖父の北条綱成は、北条氏綱の娘婿として一門に加わり、「地黄八幡」と書いた旗を掲げて数々の戦いで武名をとどろかせました。玉縄城は鎌倉の北にあり、三浦半島や江戸湾ににらみをきかせる要の城です。綱成のあとは子の氏繁、孫の氏舜が城を受け継ぎ、氏舜が亡くなると、弟の氏勝が家督を継ぎました。天正10年(1582)5月に「氏勝」と署名した文書が、氏勝の名が出てくる最初の記録です。
若き当主の戦い ― 黒駒で家康に敗れる
家督を継いだ直後の天正10年(1582)6月、本能寺の変で信長が倒れると、空白となった甲斐・信濃をめぐって、北条家と徳川家が争う「天正壬午の乱」が起こります。氏勝は北条氏忠とともに甲斐の御坂峠を越えて攻めこみましたが、黒駒(いまの山梨県笛吹市)で、家康の家臣・鳥居元忠らの軍に敗れました。若き氏勝が最初に戦った大きな相手が、のちに主君となる家康だったのです。
その後も氏勝は、天正12年(1584)に上野の厩橋城に入り、下野の皆川城や太平山城の戦いに出陣するなど、北条家が北関東へ勢力を広げる戦いの一翼を担いました。
山中城 ― 自害を止められ、脱出する
天正18年(1590)、秀吉の大軍が迫ると、氏勝は玉縄衆を率いて伊豆の山中城に入り、城主の松田康長を助けて二の丸を守りました。家臣の老将・間宮康俊も、城の最前線の岱崎出丸を引き受けています。
3月29日、豊臣軍の総攻撃が始まると、岱崎出丸と西の丸が相次いで破られ、二の丸にも敵が迫りました。氏勝はここで自害しようとしましたが、家臣の朝倉景澄に止められます。さらに弟の直重・繁広に説かれて生きることを選び、わずかな供を連れて城を抜け出すと、本拠の玉縄城へ戻りました。山中城はその日のうちに落ち、松田康長と間宮康俊は討死しています。詳しくは山中城の戦いをわかりやすく解説をご覧ください。
玉縄開城 ― 家康の説得を受け入れる
玉縄城に戻った氏勝は籠城の構えを見せましたが、城はまもなく家康の軍に囲まれました。大きな戦いは起こらず、家康の家臣・松下三郎左衛門と、氏勝が師と仰いでいた龍寶寺の住職が説得にあたります。4月21日、氏勝は城を開いて降伏しました。秀吉も同じ日の手紙で、氏勝の降伏を認めたことに触れています。
降伏した氏勝は、そのまま下総方面に向かう豊臣軍の道案内をつとめ、北条方の城に開城をすすめて回りました。無駄な戦いを避け、多くの城が血を流さずに開かれたのは、北条一門の氏勝の言葉が重かったからでしょう。開城した玉縄城には、のちに利休七哲の古田重然(織部)と瀬田正忠(掃部)が入って守りについています。
徳川家の大名として ― 岩富1万石
北条家が滅んだのち、関東に入った家康は、氏勝を家臣に迎え、下総の岩富に1万石を与えました。氏勝は領内の検地を進めるなど、新しい領地の土台づくりに力を注ぎます。関ヶ原の戦いでも家康のもとで働き、二代将軍・徳川秀忠からの信頼も厚かったといわれます。
慶長16年(1611)、氏勝は53歳で亡くなりました。跡は養子の氏重が継ぎます。氏重は家康の甥にあたる人物で、弟の繁広をきらった重臣が、家康につながる氏重を迎えたとも伝わります。かつて黒駒で戦った相手の家に、最後は家の行く末まで託すことになったのでした。
北条氏勝の人物像 ― 死なずに家を残す決断
山中城で討死した松田康長や間宮康俊にくらべると、城を脱出し、すぐに降伏した氏勝の生き方は、武士として潔くないと見られることもあります。けれども、氏勝が生き延びたことで玉縄北条家の家臣たちは路頭に迷わずにすみ、関東の多くの城が戦わずに開かれました。間宮康俊も、自分の命と引きかえに氏勝を逃がそうとしたと伝わります。主君を生かして家を残すことは、玉縄衆の願いでもあったのでしょう。
北条氏勝をめぐる人物
ゆかりの地
- 玉縄城跡(神奈川県鎌倉市):玉縄北条家の本拠。氏勝が家康に開いた城
- 龍寶寺(神奈川県鎌倉市):玉縄北条家の菩提寺。住職が氏勝の降伏を説いた
- 山中城跡(静岡県三島市):氏勝が二の丸を守り、脱出した城
- 岩富城跡(千葉県佐倉市):家康から与えられた1万石の居城




















































