はちすか いえまさ
| 地域 | 尾張→阿波 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 織田家臣→豊臣大名→徳島藩祖 |
| 大名家 | 蜂須賀家 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 槍 |
| 衣装・甲冑 | 当世具足 |
| 武将タイプ | 内政・統治型 |
蜂須賀家政は、豊臣秀吉の重臣・蜂須賀正勝(小六)の子である。四国平定ののち阿波一国を与えられ、検地や一揆の平定を通じて領国の土台をつくった。関ヶ原の戦いでは子の至鎮を東軍に付けて家を守り、徳島藩蜂須賀家は幕末まで続いた。
尾張の土豪から豊臣の大名へ
家政は永禄元年(1558)、尾張国海東郡蜂須賀村(現在の愛知県あま市)に生まれた。父は蜂須賀正勝である。蜂須賀氏は斯波氏の一流と称し、尾張の小さな土豪であった。父の正勝が織田信長、ついで豊臣秀吉に仕えたことで、家は大きく伸びた。
家政は13歳のとき姉川の戦いで初陣したと伝わる。その後も長篠の戦い、中国攻め、山崎の戦い、賤ケ岳の戦い、紀州攻めなどに加わったとされる。
阿波一国の領主として
天正13年(1585)、秀吉の四国平定ののち、家政は阿波国で17万5700石(18万石とも)を与えられた。入国後には、祖谷山などの山あいの土豪による一揆が起こった。家政はこれを平定し、太閤検地をはじめとする新しい支配の仕組みを進めた。のちの徳島藩の基礎は、この時期につくられたといえる。
その後も九州攻めや小田原攻めに出陣した。朝鮮出兵では海を渡り、浅野幸長の救援にあたったとされる。
阿波入国後の支配は、すぐに安定したわけではない。抵抗する勢力をおさえるまでに、6年ほどかかったとも伝わる。家政は武力だけでなく、検地などの仕組みを整えることで国をまとめていった。
関ヶ原と大坂の陣
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、家政は西軍に属したが、自身は出陣しなかった。剃髪して蓬庵と号し、高野山に上ったという。一方、嫡子の至鎮は東軍に属した。このため戦後も蜂須賀家の領地は守られた。
大坂の陣のころ、家政ははじめ豊臣方に心を寄せたが説得されたとも伝わる。のちに淡路国が加増され、蜂須賀家は25万7000石の大名となった。
晩年と徳島藩のその後
至鎮が早く亡くなると、家政は幼い孫の忠英の後見役となり、実質的に藩政を指導した。寛永15年(1638)12月30日、徳島で没した。生年・没年には数え方の違いから寛永16年(1639)とする辞典もある。墓は徳島の興源寺にある。
徳島藩蜂須賀家は、出羽の佐竹家や将軍家から養子を迎えながら家を保った。14代茂韶のとき廃藩置県を迎え、のちに侯爵となった。尾張の土豪から始まった家は、家政の築いた阿波の地で明治まで続いたのである。
家政は、父・正勝のように戦場での働きで名を上げただけでなく、国を治める仕組みを整えた人物として評価されている。
ゆかりの地
- 徳島城跡(徳島県徳島市):蜂須賀家の居城。阿波支配の拠点となった
- 興源寺(徳島県徳島市):蜂須賀家の菩提寺。家政が葬られた
参考にした資料
父・蜂須賀正勝
家政の父・蜂須賀正勝(小六)は、秀吉の古くからの家臣で、秀吉の出世を支えた人物として知られます。
徳島の町づくり
家政は、阿波の徳島に城を築き、城下町を整えました。今の徳島市の町の基礎は、家政の時代に作られました。
阿波踊りの伝え
徳島の阿波踊りは、家政が徳島城の完成を祝って踊らせたのが始まりという話が伝わっています。ただし、これははっきりした記録によるものではありません。
評価
家政は、父から受け継いだ蜂須賀家を阿波の大名とし、徳島藩の基礎を築いた人物です。
このイラストについて
このイラストは、陣の旗を背に、絵図の置かれた机の前に立つ家政を描いています。
兜をかぶり、指図する姿で、城と町づくりを進めた大名の姿を表しました。
卍の紋の旗は、蜂須賀家の家紋をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
尾張の百姓の家に生まれたとされる羽柴(豊臣)秀吉が、織田信長に仕えて一代で築いた家。本能寺の変の後、山崎の戦いで明智光秀を討ち、清洲会議と賤ヶ岳の戦いを経て織田家中の主導権を握った。1585年に関白となり、翌年には朝廷から「豊臣」の姓を賜っている。
豊臣家の歴史と武将一覧を見る →






































































