深水長智 | 通称深水三方。相良家の外交を一人で担い、島津氏や豊臣秀吉との壊滅的危機において家を救った名宰相

深水長智のイラスト(イメージ)

ふかみ ながとも

地域九州
所属勢力・属性相良家臣
大名家相良
家紋丸に九曜
主武器太刀・外交書状
衣装・甲冑重臣具足
武将タイプ知謀・老練

通称「深水三方」。相良家の外交を一人で担い、島津氏や豊臣秀吉との壊滅的危機において家を救った名宰相。

目次

相良家の家老

長智は、肥後の人吉を本拠とした相良家の家老です。相良家を支えた重臣として知られます。

相良家

相良家は、鎌倉時代から肥後の球磨地方を治めた古い家でした。

義陽の時代

長智は、相良義陽に仕えました。義陽の時代、相良家は島津家の圧力を受けるようになっていました。

義陽の討死

1581年、義陽は島津家に従った後、阿蘇家の甲斐宗運と響野原で戦い、討死しました。

幼い当主を支える

義陽の死後、相良家は若い当主が続きました。長智は、家老として家を支えました。

島津家への従属

相良家は島津家に従い、その九州統一の戦いに加わりました。

秀吉の九州平定

1587年、豊臣秀吉が九州に攻め込み、島津家は降伏しました。相良家も、秀吉にどう向き合うかという大きな判断を迫られました。

秀吉との交渉

長智は、秀吉のもとに出向いて交渉し、相良家の立場を説明したとされます。

本領安堵

長智の交渉によって、相良家は球磨郡の本領を認められ、豊臣大名として家を保つことができました。

相良家を救った家老

長智の働きは、相良家を救ったものとして高く評価されています。

最期

長智は、1588年に亡くなったとされます。

犬童頼兄

長智の死後、相良家の家中では犬童頼兄が力を持つようになりました。

人吉藩へ

相良家は、関ヶ原の戦いの後も所領を認められ、人吉藩として江戸時代を通じて続きました。

球磨の地

人吉は、球磨川の流れる盆地の町です。相良家は、この地をおよそ700年にわたって治めました。

人吉城

相良家の本拠である人吉城は、球磨川と胸川の流れを堀として利用した城です。現在は石垣などが残り、国の史跡に指定されています。

交渉の時代

戦国時代の終わりには、戦いだけでなく、天下人との交渉によって家の運命が決まることが多くなりました。長智は、そうした時代の家老の役割をよく示す人物です。

響野原の戦い

長智が仕えた相良義陽は、1581年に響野原で阿蘇家の甲斐宗運と戦い、討死しました。

秀吉との交渉の難しさ

九州平定のとき、島津家に従っていた家々は、秀吉にどう向き合うかで家の運命が決まりました。長智は、その難しい交渉にあたりました。

犬童頼安とともに

長智は、同じく相良家の重臣である犬童頼安らとともに、相良家を支えました。

長智の評価

長智は、相良家の家老として、秀吉の九州平定という大きな危機に交渉で立ち向かい、家の存続を勝ち取った人物です。その働きが、相良家の700年の歴史をつないだといえます。

このイラストについて

兜をかぶった白髪の老将が、霧に包まれた山並みと山城を背にした姿です。

霧に包まれた山並みは、相良家が治めた球磨の山あいの風景をイメージしています。年長の落ち着いた姿は、家老として相良家の危機に立ち向かった長智を表しています。顔立ちは想像によるものです。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

相良家

肥後南部の人吉を本拠とした家。鎌倉時代に遠江から地頭として下ったのが始まりとされ、戦国時代を通じて同じ土地を治め続けた。

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主家

相良長毎のイラスト(イメージ)相良義陽のイラスト(イメージ)

家臣団

岡本頼氏のイラスト(イメージ)犬童頼兄のイラスト(イメージ)犬童頼安のイラスト(イメージ)
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