金森可重 | 金森長近の養子。飛騨高山藩2代藩主

かなもり よししげ

地域東海
所属勢力・属性金森氏
大名家金森氏
家紋―
主武器太刀・采配
衣装・甲冑塗具足
武将タイプ文武両道・継承

金森可重は美濃の長屋景重の子で、金森長近の養子となった。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、長近の死後に飛騨高山藩の2代藩主となった。千道安に茶を学び、将軍秀忠の茶の師範も務めた。元和元年(1615)に伏見で没した。

目次

長近の養子となる

金森可重は永禄元年(1558)の生まれ。名は「ありしげ」とも読む。美濃の長屋景重の子で、金森長近の養子となった。

長近は織田信長に仕えた武将で、天正13年(1585)に豊臣秀吉の命で飛騨を攻め、飛騨一国を与えられた。可重は信長・秀吉・家康に仕えた。妻は美濃郡上の遠藤慶隆の娘とされる。

飛騨は山国で米の収量は少ないが、木材や鉱山の資源に富む。金森氏は高山に城と城下町を整え、江戸時代の高山の町並みの基礎を築いた。

関ヶ原の戦い

慶長5年(1600)、可重は長近とともに東軍に属した。家康の上杉攻めに従ったのち、家康の命で飛騨へ戻ったとされる。そして岳父の遠藤慶隆とともに、西軍の稲葉貞通が籠もる美濃郡上八幡城を攻めた。その後は関ヶ原の本戦にも加わったとされる。

戦後、金森氏は飛騨の領有を認められた。

郡上八幡城は、もとは遠藤氏の城であった。遠藤慶隆は秀吉の時代に郡上から移され、代わりに稲葉貞通が入っていた。この戦いで慶隆は郡上を取り戻し、戦後に郡上藩主となった。

高山藩主と茶の湯

長近は晩年、飛騨の政務を可重に委ねた。長近の死後、可重は家督を継ぎ、飛騨高山藩3万8千石の2代藩主となった。

可重は千利休の子・千道安に茶を学び、将軍徳川秀忠の茶の師範を務めた。長男の重近は、のちに茶人・金森宗和として知られる人物である。

慶長19年(1614)からの大坂の陣では、子の可次・重勝を伴って出陣したとされる。重近はこの頃に廃嫡されたと伝わる。元和元年(1615)閏6月3日、可重は伏見で没した。58歳。死因ははっきりしない。

ゆかりの地

  • 高山城跡(岐阜県高山市):金森長近が築いた金森氏の居城。可重が藩主として治めた。
  • 大徳寺金竜院(京都市北区):可重の墓所と伝わる。

参考にした資料

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