きっかわ つねいえ
| 地域 | 中国(石見・因幡) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 毛利氏(吉川家の一族) |
| 大名家 | 吉川氏(石見吉川家) |
| 家紋 | 丸に三つ引両 |
| 主武器 | 太刀 |
| 衣装・甲冑 | 具足 |
| 武将タイプ | 忠義の籠城将 |
吉川経家(きっかわ つねいえ)は、毛利家の重臣・吉川元春と同じ吉川氏の一族で、石見の出身の武将である。天文16年(1547年)に生まれ、天正9年(1581年)に亡くなった。因幡の鳥取城に城将として入り、豊臣秀吉の兵糧攻めに耐えたが、城兵の命を救うため自ら腹を切った。
3行でわかる吉川経家
- 石見吉川家の当主で、毛利方の武将。天正9年(1581年)、因幡の鳥取城に城将として入った
- 秀吉の大軍に囲まれ、兵糧を断たれた鳥取城は飢えに苦しんだ(鳥取の渇え殺し)
- 城兵の命を助けることを条件に開城し、自害した。子に宛てた遺書が残っている
目次
鳥取城に入る
鳥取城の城主だった山名豊国は、羽柴秀吉に降ろうとして家臣に追い出された。城の家臣たちは毛利家に城将を送るよう頼み、選ばれたのが経家だった。経家は自分の首桶を持って城に入ったと伝わる。
鳥取の渇え殺し
秀吉は鳥取城の周りを大軍で囲み、まわりの米を先に高い値で買い占めたとされる。城には兵だけでなく多くの人々が逃げこんでいて、兵糧はすぐに尽きた。城内は飢えに苦しみ、この戦いは「鳥取の渇え殺し」と呼ばれる。
城兵のための自害
天正9年(1581年)10月、経家は城兵の命を助けることを条件に城を開くことにし、自害した。35歳だった。子どもたちに宛てて、城を守った様子を伝える遺書が残されている。大将の命と引き換えに兵を助けるやり方は、秀吉の戦いでくり返された(「信長と秀吉は降伏した敵をどう扱ったか」参照)。
吉川経家をめぐる人物
ゆかりの地
- 鳥取城跡(久松公園)(鳥取県鳥取市):経家が籠城した城の跡。経家の像がある
- 吉川経家墓所(鳥取県鳥取市):経家をしのぶ墓所










































