まえだ げんい
| 地域 | 近畿 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 豊臣家臣 |
| 大名家 | 豊臣 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 数珠・行政書状 |
| 衣装・甲冑 | 僧衣 |
| 武将タイプ | 温厚・調整 |
前田玄以は美濃出身の元僧で、織田信忠に仕えたのち、豊臣秀吉のもとで京都の行政を長く担った。丹波亀山5万石を領し、晩年の秀吉により五奉行の一人とされた。関ヶ原の戦いでは西軍に属しながら東軍に通じ、戦後も所領を保った。
目次
僧から織田家臣へ
前田玄以は天文8年(1539年)の生まれで、美濃の出身である。はじめ比叡山の僧であったとされ、のち織田信長の嫡男・信忠に仕えた。
天正10年(1582年)の本能寺の変で信忠は二条御所で自害した。このとき玄以は信忠の子・三法師(のちの織田秀信)を託されて脱出したと伝わる。その後、織田信雄のもとで京都奉行となった。
秀吉政権での京都支配
玄以は豊臣秀吉の政権でも京都の行政を担当した。後世、この役職は京都所司代と呼ばれる。天正13年(1585年)には丹波亀山(今の京都府亀岡市)5万石を与えられた。
担当した仕事は、禁裏(天皇の御所)に関わる用務、門跡(皇族・貴族が住職を務める寺)や寺社の所領の管理、洛中洛外(京都の市中と郊外)の支配などである。元僧としての経歴が、寺社との交渉に生かされたと考えられている。
慶長3年(1598年)頃、晩年の秀吉は政務を分担させる五奉行を定めた。玄以はその一人に加えられた。
関ヶ原とその後
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、玄以は西軍に属した。しかし東軍の徳川家康に内応しており、戦後は所領を安堵された(そのまま認められた)。
慶長7年(1602年)5月7日に死去した。3男5女があり、三男正勝の家系が幕臣として続いた。
ゆかりの地
- 亀山城跡(京都府亀岡市):玄以が5万石で領した丹波亀山の城











































