とざわ みちもり
| 地域 | 東北 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 出羽戸沢氏 |
| 大名家 | 戸沢氏 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀 |
| 衣装・甲冑 | 重臣具足 |
| 武将タイプ | 老練・基盤 |
出羽国仙北郡の角館城を本拠とした戸沢氏の当主で、盛安の父。享禄2年に幼くして家督を継ぎ、後見役の叔父忠盛の反乱で角館を追われたが、重臣らの支持で復帰した。道盛・盛安父子の代に、北浦郡と呼ばれる領域を固めた。
幼少での家督継承
戸沢道盛(とざわ みちもり)は、出羽国仙北郡の角館城(現在の秋田県仙北市)を本拠とした戸沢氏の当主である。父は戸沢秀盛。享禄2年(1529)、6歳で家督を継いだとされる(5歳とする記述もある)。
戸沢氏は15世紀初めに家盛が角館城を本拠としたと伝わる。確かな史料での初見は、15世紀末の神宮寺八幡宮の棟札に記された「平飛驒守家盛」である。
叔父忠盛の反乱
幼い道盛の後見役には、叔父の戸沢忠盛が就いた。しかし忠盛は宗家の乗っ取りを図り、道盛と母は角館城から追われた。
楢岡氏ら重臣が道盛を支持して忠盛に圧力をかけた。その結果、道盛は角館に戻り、忠盛は淀川城に退いたとされる。
北浦郡の形成と盛安
道盛の時代、戸沢氏は周辺の土豪を組織し、北浦郡と呼ばれる領域を確保していった。この動きは子の盛安の代に引き継がれた。
盛安は天正6年(1578)から角館城主となり、小野寺義道や安東(秋田)実季と争った。盛安は天正18年(1590)の小田原参陣中に病死し、弟の光盛が北浦郡4万石余を安堵された。道盛の没年ははっきりしない。隠居後まもなく没したとする説と、長く一族を後見したとする説がある。
ゆかりの地
- 角館城跡(仙北市):戸沢氏の本拠。
参考にした資料
角館の戸沢家
道盛は、出羽の仙北郡の角館城(現在の秋田県仙北市)を本拠とした戸沢家の当主です。
戸沢家
戸沢家は、15世紀のはじめに家盛が角館城を本拠としたと伝わる家です。
幼くして家督
道盛は、1529年に6歳で家督を継いだとされます(5歳とする記述もあります)。父は戸沢秀盛でした。
叔父の反乱
幼い道盛の後見役だった叔父の忠盛が反乱を起こし、道盛は角館を追われました。
重臣たちの支持
しかし、重臣たちの支持を受けて、道盛は角館に戻ることができました。
北浦郡
道盛とその子・盛安の代に、戸沢家は「北浦郡」と呼ばれる領域を固めました。
周りの勢力との争い
戸沢家は、安東家や小野寺家などと争いながら、仙北の地で勢力を保ちました。
子の戸沢盛安
道盛の子の盛安は、「夜叉九郎」と呼ばれた勇将で、戸沢家の勢力を大きく広げました。
盛安の小田原参陣
1590年、盛安は豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、戸沢家の所領を認められました。しかし盛安は、その陣中で病死しました。
盛安の死の後
盛安の死後、戸沢家は盛安の子の政盛が継ぎました。
老練な父
道盛は、子の盛安が亡くなった後も、戸沢家の後見役として家を支えたとされます。
最期
道盛は1592年に亡くなったとされます。
戸沢家のその後
戸沢家は、その後常陸に移され、さらに出羽の新庄藩の大名となって江戸時代を通じて続きました。
角館の町
角館は、のちに佐竹家の一族が治め、武家屋敷の町並みが残る「みちのくの小京都」として知られています。
道盛の評価
道盛は、幼くして家督を継ぎ、叔父の反乱を乗り越えて戸沢家の基盤を固めた当主です。その基盤の上に、子の盛安が戸沢家を大きく発展させました。
このイラストについて
白髪まじりの武将が、夕日に照らされた山並みと山城を背にした姿です。
背景の山並みと山城は、戸沢家が本拠とした出羽の角館城と、仙北の山あいの風景をイメージしています。年長の落ち着いた姿は、長く戸沢家を支えた道盛を表しています。顔立ちは想像によるものです。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
出羽の角館を本拠とした家。戸沢道盛の子・盛安は若くして武勇に優れ、「夜叉九郎」と呼ばれた。盛安は小田原征伐の陣中で病死したとされる。
戸沢家の歴史と武将一覧を見る →























