しまづ ただよし
| 地域 | 九州(薩摩) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 島津氏(伊作島津家) |
| 大名家 | 島津家 |
| 家紋 | 丸に十の字 |
| 主武器 | ―(采配) |
| 衣装・甲冑 | 具足・法体 |
| 武将タイプ | 島津家中興の祖 |
島津忠良(しまづ ただよし)は、薩摩の島津家の一族で、出家後の日新斎(じっしんさい)の名で知られる。明応元年(1492年)に生まれ、永禄11年(1568年)に77歳で亡くなった。子の貴久を島津本家の当主に立て、分裂していた島津家を立て直した。島津義久・義弘・歳久・家久の四兄弟の祖父にあたる。
3行でわかる島津忠良
- 島津家の分家・伊作島津家の当主で、相州島津家も継いだ
- 子の貴久を本家の養子として当主に立て、反対する一族と戦った
- 武士の心得を47首の歌にした「日新公いろは歌」で、島津家の家風をつくった
目次
分裂した島津家
戦国時代の初め、薩摩の島津家は本家の力が弱まり、一族どうしが争っていた。忠良は分家の伊作島津家に生まれ、母の再婚によって相州島津家も継ぎ、力をつけた。
大永7年(1527年)、本家の当主・島津勝久は、忠良の子の貴久を養子にむかえて家督をゆずった。しかし勝久はのちに考えを変え、さらに一族の島津実久も家督をねらったため、争いが続いた。
貴久を当主に
忠良は貴久とともに実久らと戦い、天文8年(1539年)ごろまでに薩摩の大部分を押さえた。こうして貴久は島津家の当主としての地位を固め、島津家は戦国大名として九州に勢力を広げていくことになった。忠良は「島津家中興の祖」と呼ばれる。
日新公いろは歌
忠良は、武士として生きる心得を「いろは」の順に47首の歌にまとめた。これが「日新公いろは歌」で、島津家の家臣の子どもたちの教えとして、江戸時代の薩摩藩の教育(郷中教育)にまで受け継がれた。
晩年は加世田(鹿児島県南さつま市)で過ごし、孫の義久・義弘らの成長を見守った。
島津忠良をめぐる人物
- 子:島津貴久
- 孫:島津義久/島津義弘/島津歳久/島津家久
- 戦った一族:島津実久/島津勝久
ゆかりの地
- 竹田神社(鹿児島県南さつま市加世田):忠良をまつる神社。墓所の日新寺跡
- 伊作城跡(鹿児島県日置市吹上町):忠良が生まれた伊作島津家の城


島津貴久
島津義久
島津義弘
島津歳久







































