島津歳久 | 島津四兄弟の三男。冷静沈着な軍師タイプとして秀吉の九州平定に対する抵抗を最後まで主張

しまづ としひさ

地域九州
所属勢力・属性島津氏
大名家島津氏
家紋丸に十の字
主武器太刀・軍事書
衣装・甲冑塗具足
武将タイプ知謀・不屈
目次

智の歳久—島津四兄弟に生まれて

島津歳久(しまづ としひさ)は、1537年、薩摩・大隅・日向の三国に覇を唱えた守護大名島津貴久の三男として生まれ、兄の義久義弘、弟の家久とともに、戦国屈指の兄弟と讃えられる「島津四兄弟」の一人に数えられる武将である。四人の兄弟はいずれも傑出した資質を備えていたが、なかでも歳久は物事の先を冷静に見通す思慮深さで知られ、武勇の義弘や統率の義久とは異なる智略の人として、後世に「智の歳久」の名で語り継がれることになった。

祖父・日新斎が見抜いた「智計並びなし」

島津家中興の祖と仰がれる祖父の島津忠良(日新斎)は、幼い孫たちの器量をそれぞれに見定め、長兄の義久には一国を束ねる将たる器を、次兄の義弘には雄々しい武略の才を認めたと伝えられる。そのなかで歳久については「始終の利害を察するの智計、並びなし」と評したとされ、事の初めから終わりまでの損得を見抜く知恵において、兄弟のなかでも比類なき才を持つと見抜いていたという。この祖父の言葉は、歳久という人物の本質を早くから言い当てたものとして、後の世に繰り返し語り継がれることになった。

島津四兄弟、四つの個性

島津四兄弟の結束と役割分担は、戦国きっての兄弟の理想像としてしばしば語られ、長兄の義久が当主として一族を束ねる統率を担い、次兄の義弘は「鬼島津」と恐れられた無双の武勇で戦場を駆けた。三兄の歳久は戦略と判断をよくする智略で兄を補佐し、末弟の家久は「釣り野伏せ」に代表される変幻自在の軍略で数々の勝利を呼び込んだと伝わる。四人がそれぞれの長所を持ち寄り、一つの意志のもとに動いたことこそ、寡兵ながら九州の大半を席巻した島津軍団の強さの源泉であったといえる。

九州統一へ—兄を支えた戦い

父貴久の跡を継いだ義久のもとで、島津家は日向の伊東氏、豊後の大友氏、肥前の龍造寺氏といった強敵と相次いで干戈を交え、着実に九州統一へと歩を進めていった。1578年の耳川の戦いでは大友宗麟の大軍を撃破し、1584年の沖田畷の戦いでは龍造寺隆信を討ち取るなど、島津は破竹の勢いで版図を広げ、歳久もまた兄弟の一翼として各地を転戦したと伝えられる。智略に長けた歳久は、単なる猛将としてではなく、戦局を読み采配や調略によって局面を動かす参謀的な役回りを担ったとされる。

領国を治めた智将の横顔

歳久は薩摩の祁答院(けどういん)などを領し、合戦のみならず領国の統治にも着実な手腕を発揮したと伝えられる。兄弟が各地の戦線に分かれて働くなか、歳久は状況を冷静に見極め、進むべきか退くべきかの判断を助ける役割を果たし、祖父が見抜いた「利害を察する智計」は、こうした実務と決断の場面でこそ生かされたのだろう。

豊臣秀吉の九州征伐

九州統一を目前にした1587年、天下統一を推し進める豊臣秀吉が大軍を率いて九州へ攻め下り、島津家はかつてない強大な敵と正面から対峙することになった。圧倒的な兵力差の前に島津は各地で退却を余儀なくされ、ついに当主の義久が剃髪して秀吉に降り、本領の薩摩・大隅などを安堵される形で臣従を受け入れた。しかし一族のすべてが心から新たな主君に服したわけではなく、歳久は最後まで秀吉への抵抗の姿勢を崩さなかったと伝えられる。

秀吉への抵抗—輿をめぐる逸話

秀吉に対する歳久の反発は根深く、九州平定の折に秀吉の輿へ矢を射かけさせた、あるいは配下がこれを襲ったといった逸話が、後の世に語り伝えられている。こうした話がどこまで事実であったかは定かではないが、誇り高き島津の一族として、天下人にたやすく膝を屈することへの強い抵抗が歳久のうちにあったことをうかがわせる。智略の人でありながら、時流に安易に従うことをよしとしなかった一徹さが、やがて自らの運命を大きく左右していくことになる。

梅北一揆と家臣の関与

1592年、秀吉が朝鮮への出兵を推し進めるなか、これに反発した島津家臣の梅北国兼が肥後で挙兵する「梅北一揆」が起こった。一揆はほどなく鎮圧されたが、この蜂起に歳久の家臣が加わっていたことが露見し、かねて秀吉への抵抗を続けていた歳久への疑念は、いよいよ決定的なものとなった。折しも歳久は病を得て朝鮮への渡海にも従わなかったとされ、こうした事情が重なって、秀吉の怒りはついに歳久その人へと向けられることになったと伝えられる。

兄・義久が弟に向けた兵

秀吉は歳久の討伐を島津家自身に命じ、当主の義久は、一族と領国の存続を守るためには弟を討たざるをえないという、あまりに苛烈な選択を迫られたと伝えられる。天下人の意に背けば島津家そのものが取り潰されかねない状況のなか、義久は苦渋のうちに弟へと兵を差し向けたとされ、その胸中は察するにあまりある。肉親を手にかけねばならなかったこの一件は、勝者の論理が支配した時代の非情さを、いまに伝える出来事といえよう。

竜ケ水に散る—悲劇の最期

1592年、追い詰められた歳久は、薩摩の竜ケ水(たつがみず)のほとりで自害に追い込まれたと伝えられ、五十六年の生涯を静かに閉じた。病のために自ら刀を執ることも難しかった歳久は、家臣の手を借りて最期を遂げたともいわれ、主君であり兄でもある義久との間に、言葉にならぬ別れがあったことを想像させる。智略をもって一族を支え続けた武将の、あまりに悲しい幕切れであった。

「智の歳久」が遺したもの

歳久の死は、島津四兄弟の固い結束に暗い影を落とす痛ましい出来事であったが、その智略と誇り高き生き方は、薩摩の地に長く語り継がれていった。後年、非業の死を悼まれた歳久は神として祀られ、郷土の人々の崇敬を集める存在になったと伝えられる。統率の義久、武勇の義弘、軍略の家久と並び、「智の歳久」の名は、戦国の九州を駆け抜けた島津兄弟の物語に欠かせない一章として、今も静かな光を放っている。

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