しむら あきやす
| 地域 | 出羽(山形県) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 最上家臣(重臣) |
| 大名家 | 最上氏 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 刀・槍 |
| 衣装・甲冑 | 当世具足 |
| 武将タイプ | 籠城・守将型/統治型 |
志村光安は、出羽の大名最上義光に仕えた重臣である。慶長5年(1600)の長谷堂城の戦いで、上杉の大軍から城を守りぬいた。のちに酒田の城主となり、戦で荒れた酒田の町をたて直した。
最上義光に仕える
光安の出自ははっきりしない。山形の北、漆山の志村の出ともいわれる。はじめは志村九郎兵衛と名のり、のちに伊豆守光安と称した。生年もわからないが、主君の義光より若い世代と考えられている。
天正5年(1577)ごろ、義光は対立していた白鳥十郎長久に対抗するため、織田信長に使いを送った。このとき献上品と系図を持って京都へのぼり、信長に会ったのが光安だったという。光安は連歌もたしなむ文化人でもあった。
長谷堂城の戦い
慶長5年(1600)9月、関ヶ原の戦いと同じころ、上杉家の直江兼続が大軍をひきいて最上領に攻めこんだ。上杉勢は山形城の手前にある長谷堂城を囲んだ。
この城を守ったのが光安である。光安は少ない兵で持久戦にもちこみ、上杉勢に城を突破させなかった。長谷堂城の守将が光安であったことは、諸書で一致している。この戦いは「関ケ原につぐ大合戦」とも評される。
上杉勢が引きあげたあと、谷地城には上杉方の下吉忠が取り残された。光安はひとりで谷地城に入り、降伏をすすめた。相手からは「敵に対して決してうそを言わない人」と信頼されたという。
酒田の城主として
戦いのあと、最上家は庄内を手に入れた。慶長6年(1601)、光安は庄内の最上川より北、3万石をあたえられ、東禅寺城(酒田)の城主となった。これは最上家臣のなかで、本荘満茂の4万5千石に次ぐ大きさだった。城はのちに、慶長8年(1603)義光によって亀ヶ崎城と名を改められた。
酒田の町は戦火で荒れていた。光安は町の有力者である三十六人衆と相談し、商いを重んじた町づくりを進めた。港の働きを強め、寺町の置き方も工夫した。こうして酒田は「羽州第一の港町」へと育っていった。
最期と志村家のその後
光安は慶長16年(1611)8月7日に亡くなった。主君義光より3年早い死であった。跡は子の九郎兵衛光惟が継いだ。しかし光惟は慶長19年(1614)6月1日、鶴ヶ岡の城下で一栗兵部に襲われて殺された。
酒田の青原寺には、光安夫妻の五輪塔が残る。また家臣らが建てた石造の九重塔が永泉寺にあり、山形県の文化財に指定されている。主家の最上家は、のちに元和8年(1622)に改易された。
ゆかりの地
- 長谷堂城跡(山形県山形市長谷堂):光安が上杉勢の攻撃を防ぎきった城の跡。
- 亀ヶ崎城跡(山形県酒田市亀ヶ崎):光安が城主をつとめた東禅寺城。のちに亀ヶ崎城と改名。
- 青原寺(山形県酒田市):光安夫妻の五輪塔が残る寺。
参考にした資料
志村光安とは
志村光安は、出羽の最上義光に仕えた重臣です。
酒田の城主
光安は、のちに出羽の酒田(亀ヶ崎城)の城主となりました。
評価
光安は、長谷堂城の戦いで城を守り抜き、最上家の危機を救った重臣です。
このイラストについて
このイラストは、雪の舞う城を背に、扇を掲げる光安を描いています。
扇を掲げる姿で、城を守って兵を指図した武将の気迫を表しました。
雪の降る城と兵は、長谷堂城の戦いをイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
室町幕府の管領家・斯波氏の流れをくむ家で、出羽の羽州探題を称した。最上義光は父義守との対立を乗り越えて家督を継ぎ、天童氏・寒河江氏・大宝寺氏など周辺の勢力を次々に降して、山形を中心に出羽の村山・最上地方をまとめあげた。
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