ほんごう ときひさ
| 地域 | 日向国 都城(宮崎県都城市) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 島津一門 |
| 大名家 | 島津家(北郷家) |
| 家紋 | 丸に十字(島津一門) |
| 主武器 | 刀 |
| 衣装・甲冑 | 当世具足 |
| 武将タイプ | 一門の領主・武将 |
北郷時久は、島津氏の一門・北郷家の10代当主である。享禄3年(1530)に生まれ、都城盆地を治めた。時久の時代に北郷家の領地は最も広くなったが、豊臣秀吉の九州攻めのあと、薩摩の宮之城へ移され、そこで亡くなった。
北郷家の起こり
北郷家は、島津家4代・島津忠宗の6男・資忠に始まる家である。資忠は南北朝時代に足利尊氏方について手柄を立て、文和元年(1352)に北郷(宮崎県都城市一帯)300町を与えられた。これが北郷家の始まりで、のちの都城島津家につながる。
8代忠相の時代に、北郷家は都城盆地をほぼ一つにまとめた。時久はこの忠相の孫にあたる。
家督を継ぎ、領地を広げる
時久は9代忠親の長男で、母は根占大和守尊重の娘である。父の忠親が島津豊州家を継いだため、天文15年(1546)に北郷家の家督を相続した。時久の時代、北郷家の支配する地域は最大となり、領地を治める仕組みも整えられた。
父の忠親は、飫肥(宮崎県日南市)をめぐって伊東氏と争った。時久もたびたび兵を送ってこれを助けた。島津本家が元亀3年(1572)の木崎原合戦や、天正6年(1578)の耳川の合戦で伊東氏・大友氏に勝ったときも、時久は参戦して活躍した。天正7年(1579)には、当主の島津義久から所領を認められている。
秀吉への降伏と晩年
天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州攻めで島津氏は降伏した。時久はやや遅れて降伏した。秀吉は人質を出すことを条件に、時久の領地をそのまま認めた。時久は子の三久と忠頼を人質に差し出した。
しかし文禄4年(1595)、文禄の検地のあと、時久は都城を離れ、薩摩の祁答院宮之城(鹿児島県さつま町)に移された。翌慶長元年(1596)2月、宮之城で亡くなった。67歳であった。墓は都城市の龍峯寺跡にある。
子どもたちと北郷家のその後
時久の長男・相久は、謀反を疑われて天正7年(1579)に自害した。そのため次男の忠虎が跡を継いだ。忠虎は耳川の合戦などで手柄を立て、文禄の役で朝鮮に渡ったが、文禄3年(1594)に現地で病死した。
慶長4年(1599)、島津氏と家臣の伊集院氏が争う庄内の乱が起こり、都城は戦場になった。のちに北郷家は都城に戻り、姓を「島津」に改めて都城島津家と呼ばれるようになった。家は江戸時代を通して続いた。
ゆかりの地
- 龍峯寺跡(宮崎県都城市都島町):時久と子の忠虎の墓がある
- 都之城跡(宮崎県都城市都島町・城山公園):北郷氏が拠点とした中世の山城
参考にした資料
北郷時久とは
北郷時久は、島津家の一族・北郷家の当主で、日向の都城を本拠としました。
都城
北郷家は、都城を本拠として日向の南部に勢力を持ちました。都城の名は、北郷家の城にちなむとされます。
伊東家との戦い
時久は、日向の伊東家と戦い、領地を広げました。
評価
時久は、島津家の一族として都城を治め、北郷家の勢力を広げた当主です。北郷家は、のちに都城島津家として続きました。
このイラストについて
このイラストは、山城と旗を背に、軍配を手にした時久を描いています。
大きな前立ての兜と堂々とした姿で、北郷家を率いた当主の威厳を表しました。
霧の立つ山々と城は、北郷家の本拠・都城をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
鎌倉時代から薩摩・大隅・日向の守護を務めた名門。戦国時代の初めには一族の分家どうしが争って勢力が分裂していたが、分家の相州家から出た島津忠良(日新斎)と子の貴久が本家を継ぎ、薩摩の統一を進めた。
島津家の歴史と武将一覧を見る →

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