やくまる かねまさ
| 地域 | 大隅 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 肝付氏家臣(家老) |
| 大名家 | 肝付家 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 野太刀 |
| 衣装・甲冑 | 当世具足 |
| 武将タイプ | 猛将 |
薬丸兼将は戦国時代の大隅国の武将である。島津氏の家臣と紹介されることもあるが、仕えたのは大隅の肝付氏で、その家老・重臣だったと伝わる。号は湖雲。のちに薩摩の剣術「薬丸自顕流」を伝える薬丸家の先祖にあたる人物である。
肝付氏から分かれた薬丸家
薬丸家は、大隅国肝属郡を本拠とした肝付氏の分家である。肝付氏の祖は平安時代の伴兼行とされ、その曾孫の兼貞が肝付郡の弁済使となって肝付を名乗ったと伝わる。
伴兼行は野太刀(陣太刀)の技にすぐれていたとされ、その技は肝付氏と分家の薬丸氏に代々受け継がれたという。薬丸家は肝付一族の中でも、武の家として知られていた。
肝付氏は、平安時代の終わりから大隅の肝属郡一帯に根を張った古い一族である。その一門からは北原氏・安楽氏・梅北氏・薬丸氏などが分かれ、大隅や薩摩の各地に領地を持った。薬丸家もそうした肝付一族の家の一つである。兼貞の五男・兼高が梅北氏をおこしたように、肝付氏は多くの分家を出して勢力を広げていった。
肝付家の家老として
兼将は肝付家の家老・重臣として仕えた。戦国時代の肝付氏は、薩摩の島津氏や日向の伊東氏と争い、大隅の独立を守ろうとした家である。
流派の伝えによれば、天正4年(1576)、兼将は伊東氏との戦いで大将として兵を率いた。しかし命令が軍の末端までうまく伝わらず、味方は敗れたという。この戦いで兼将をふくむ300人あまりが討死したと伝わる。生まれた年ははっきりしない。
戦国時代の南九州では、島津氏・肝付氏・伊東氏の三つの勢力が長く争っていた。肝付氏は一時、島津氏の本拠の鹿児島をおびやかすほどの力を見せたが、やがて島津氏の勢いにおされていく。兼将が生きたのは、主家の肝付氏が生き残りをかけて戦い続けた時代であった。
子孫と薬丸自顕流
肝付氏はやがて島津氏に降り、薬丸家も肝付本家とともに島津氏に仕えるようになった。兼将の孫とされる薬丸兼成(壱岐守)は野太刀の達人として家中で名高く、朝鮮出兵や庄内の乱、関ヶ原の戦いで手柄を立てたという。流派では中興の祖とされる。
兼成の孫の薬丸兼陳は、元和6年(1620)に東郷重位の示現流に入門した。一方で家に伝わる野太刀の技も大切に守り続けた。江戸時代後期、薬丸兼武(長左衛門)がこの技を独自の流儀にまとめ、野太刀自顕流(薬丸自顕流)が成立した。
つまり兼将自身が流派を開いたわけではない。流派の源となった家伝の野太刀術を受け継いだ、薬丸家の先祖の一人である。この家は薩摩藩士として幕末まで続き、薬丸自顕流は多くの薩摩藩士が学ぶ剣術となった。
参考にした資料
薬丸兼将とは
薬丸兼将は、大隅の肝付家に仕えた家老で、薬丸家の当主です。
肝付家の家老
兼将は、肝付家の家老として家の政治と戦いを支えました。
島津家との争い
肝付家は、島津家と大隅の支配をめぐって長く争いました。
薬丸自顕流
兼将の子孫には、のちに薬丸自顕流という剣術を広めた人物が出ました。薩摩の剣術として、幕末まで受け継がれました。
評価
兼将は、肝付家の家老として家を支え、その家系はのちに薩摩の剣術の家として名を残しました。
このイラストについて
このイラストは、山城と陣を背に、刀を構える兼将を描いています。
鋭い目つきと力のこもった構えで、剣の家の祖となった武将の気迫を表しました。
霧の立つ山々と城は、肝付家が治めた大隅の山あいをイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
鎌倉時代から薩摩・大隅・日向の守護を務めた名門。戦国時代の初めには一族の分家どうしが争って勢力が分裂していたが、分家の相州家から出た島津忠良(日新斎)と子の貴久が本家を継ぎ、薩摩の統一を進めた。
島津家の歴史と武将一覧を見る →

-name-300x300.jpg)







































-name-1024x1024.jpg)















