細川ガラシャ | 明智光秀の娘で細川忠興の妻。キリシタンとなり、関ヶ原の直前に人質を拒んで最期を迎えた

細川ガラシャのイラスト(イメージ)

ほそかわ がらしゃ

地域近畿(丹後・大坂)
所属勢力・属性細川氏(細川忠興の正室)
大名家細川家(明智家の出身)
家紋九曜(細川家)
主武器―
衣装・甲冑小袖・打掛
武将タイプ信仰に生きた姫

細川ガラシャ(ほそかわ がらしゃ)は、明智光秀の娘で、細川忠興の妻である。本名は玉(珠)。永禄6年(1563年)に生まれ、慶長5年(1600年)に38歳で亡くなった。キリスト教の洗礼を受けて「ガラシャ」と名のった。関ヶ原の戦いの直前、石田三成の人質になることを拒み、大坂の細川屋敷で最期を迎えた。

3行でわかる細川ガラシャ
  • 明智光秀の娘で、織田信長のすすめにより細川忠興に嫁いだ
  • 本能寺の変のあと「謀反人の娘」として丹後の山奥に2年間幽閉された
  • キリシタンとなり、関ヶ原の直前に人質を拒んで大坂の屋敷で亡くなった
目次

明智光秀の娘

玉は明智光秀の三女として生まれた。天正6年(1578年)、織田信長のすすめで、光秀と親しい細川藤孝の嫡男・細川忠興に16歳で嫁いだ。夫婦は丹後で暮らし、子どもにも恵まれた。

本能寺の変と幽閉

天正10年(1582年)、父の光秀が本能寺の変を起こした。光秀は細川家に味方を求めたが、藤孝と忠興はこれを断った。玉は「謀反人の娘」となり、丹後の山奥の味土野(京都府京丹後市)に約2年間閉じこめられた。

その後、豊臣秀吉の許しを得て細川家の大坂屋敷に戻ったが、外出もままならない暮らしが続いた。

キリシタン「ガラシャ」

大坂で暮らすうちに、玉はキリスト教に心をひかれていった。天正15年(1587年)、侍女の清原マリアから洗礼を受け、「ガラシャ」(ラテン語で神の恵みの意味)という洗礼名を名のった。同じ年、秀吉はバテレン追放令を出しており、信仰を守るのは簡単ではなかった。

最期

慶長5年(1600年)、夫の忠興は徳川家康に従って会津攻めに出陣した。その留守に、大坂の石田三成は東軍の大名の妻子を人質に取ろうとし、細川屋敷を兵で囲んだ。

ガラシャは人質になることを拒んだ。キリスト教では自害が禁じられていたため、家老の小笠原少斎の手で最期を迎え、屋敷には火が放たれたと伝わる。辞世の歌「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」が残る。この出来事は、三成の人質作戦を失敗させる一因になったといわれる。

細川ガラシャをめぐる人物

  • 父:明智光秀
  • 夫:細川忠興
  • 義父:細川藤孝(幽斎)
  • 子:細川忠隆/細川忠利 ほか
  • 洗礼をさずけた侍女:清原マリア

ゆかりの地

  • 味土野ガラシャ隠棲地(京都府京丹後市):本能寺の変のあと幽閉された地
  • 越中井(細川屋敷跡)(大阪市中央区):ガラシャが最期を迎えた屋敷の井戸が残る
  • 勝龍寺城公園(京都府長岡京市):忠興と結婚して暮らしたと伝わる城
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