木崎原の戦いをわかりやすく解説|島津義弘はなぜ300で3,000の伊東軍に勝てたのか ― 加久藤城の夜襲と釣り野伏せ

伏せていた島津の兵が一斉に立ち上がり、伊東の大軍に襲いかかるイメージ

元亀3年(1572)5月、日向と薩摩・大隅の境にある真幸院(いまの宮崎県えびの市)で、島津義弘はわずか300ほどの兵で、10倍の伊東軍を打ち破りました。「九州の桶狭間」とも呼ばれる木崎原の戦いです。この一戦を境に、日向48城を誇った伊東家は坂道を転げ落ち、島津家は九州統一へと歩みはじめます。少ない兵でなぜ勝てたのか。木崎原の戦いを、登場する武将と戦いの流れから、わかりやすく解説します。

先に答え

木崎原の戦いは、飯野城の島津義弘が、日向の伊東義祐の軍を破った戦いです。伊東軍は約3,000で義弘の妻子がいる加久藤城を夜襲しましたが落とせず、退いて休んでいたところを、義弘の少数の兵に襲われました。

義弘は兵を分けて伏せておき、正面の兵がわざと退いて敵を引き込んだところを左右から襲わせたと伝わります。のちに島津家のお家芸とされる「釣り野伏せ」です。伊東方は大将の伊東祐安をはじめ名のある将を数多く失い、ここから伊東家の没落が始まりました。

木崎原の戦いの基本データ

いつ 元亀3年(1572)5月4日(前夜の5月3日に加久藤城への夜襲)
どこ 日向国真幸院の木崎原(いまの宮崎県えびの市)。近くに島津方の飯野城・加久藤城がある
対立 島津義弘(島津家)× 伊東祐安ら(伊東義祐の軍)
兵力 伊東方 約3,000、島津方 約300(いずれも通説)
結果 島津方の勝利。伊東方は大将の伊東祐安をはじめ多くの将を失う。島津方も多くの戦死者を出した
この後 伊東家は家臣の離反が続き、天正5年(1577)に義祐が日向を追われる(伊東崩れ)。翌年の耳川の戦いへつながる
伏せていた島津の兵が一斉に立ち上がり、伊東の大軍に襲いかかるイメージ
伏せていた兵が一斉に立ち上がり、伊東軍に襲いかかる(イメージ)

■ 豊臣秀吉・秀長 オリジナルグッズ ■

姉妹サイト「日本の歴史ガイド」がデザインした秀吉・秀長グッズ。Tシャツ・マグカップ・トートバッグに加え、スマホケース・フェイスタオル・タンブラーなどもあります

秀吉・秀長グッズを見る ▶

※姉妹サイト「日本の歴史ガイド」のオリジナル商品です。NHK・大河ドラマの公式グッズではありません。

目次

木崎原の戦いの年表

年月日 おもな出来事
永禄年間(1560年代) 日向の伊東と薩摩の島津が、両国の境にある真幸院(飯野)をめぐって争う。島津義弘が飯野城に入り、伊東に備える
永禄11年(1568) 伊東義祐が島津一族から飫肥を奪う。伊東家は「伊東四十八城」と呼ばれる最盛期を迎える
元亀2年(1571)6月 島津家の前当主・島津貴久が亡くなる。伊東はこれを好機と見る
元亀3年(1572)5月3日夜 伊東軍約3,000が小林城方面から進み、義弘の妻子がいる加久藤城を夜襲。城兵が守り抜く
元亀3年(1572)5月4日 木崎原の戦い。退いて休んでいた伊東軍を、義弘の兵が襲って破る
天正4年(1576) 島津が真幸院の伊東方の拠点・高原城を落とす
天正5年(1577)12月 家臣の離反が相次ぎ、義祐が日向を捨てて豊後の大友宗麟を頼る(伊東崩れ)
天正6年(1578)11月 伊東の旧領回復を名目に大友が日向へ攻め込み、耳川の戦いで島津に大敗する

なぜ戦いが起きたのか ― 真幸院をめぐる伊東と島津

日向(いまの宮崎県)の伊東家と、薩摩・大隅(いまの鹿児島県)の島津家は、長く国境の土地を奪い合ってきました。その焦点のひとつが、両国の境にある盆地・真幸院です。島津はここに飯野城を置き、若き義弘を城主として伊東に備えさせました。

当時の伊東家は勢いの頂点にありました。当主の伊東義祐は日向の大半を押さえ、島津一族から飫肥も奪って、「伊東四十八城」と呼ばれる城の網を日向じゅうに張りめぐらせていました。一方の島津家は、元亀2年(1571)に前当主の貴久が亡くなったばかり。当主の島津義久のもとで薩摩・大隅をまとめきれておらず、大隅の肝付家などとも争っていました。

飫肥城の大手門
飫肥城の大手門(筆者撮影)。伊東と島津が長く奪い合った城で、江戸時代には伊東家の飫肥藩の城となった。大手門は昭和に復元されたもの
宮崎城址の木の門
宮崎城跡の入口(筆者撮影)。伊東家が日向じゅうに置いた「伊東四十八城」のひとつ

伊東から見れば、島津が弱っている今こそ、真幸院から島津を追い出す好機でした。そこで狙われたのが、義弘の妻子がいた加久藤城です。

家 当主・中心人物 元亀3年(1572)の状況
伊東家(日向) 伊東義祐 日向の大半を押さえる最盛期。大軍を出せる余裕があった
島津家(薩摩・大隅) 島津義久(真幸院は弟の義弘が守る) 前当主・貴久が亡くなった直後。大隅の肝付家などとも争い、真幸院に回せる兵は少なかった
相良家(肥後) 相良義陽 伊東と結んで島津をはさもうとしたが、木崎原の戦いには加わらなかったとされる

兵力くらべ ― 伊東3,000対島津300

木崎原の戦いの兵力(通説)

伊東方(伊東祐安ら)約3,000
島津方(島津義弘)約300

伊東方は島津方の約10倍。数字は後世の記録による通説で、島津方には加久藤城の守備兵や救援に駆けつけた兵も加わっていたとされます。

木崎原の戦いに登場した主な武将(島津方)

人物 立場 この戦いでの動き
島津義弘 飯野城主。島津四兄弟の次男(38歳) 少ない兵を分けて伏せ、退いて休む伊東軍を襲って破る。自らも槍をとって戦ったと伝わる
遠矢良賢 義弘に仕えた飯野衆の一人 加久藤城の救援に向かって伊東軍を挟み撃ちにし、義弘の退却を助けるために踏みとどまって戦死したとされる
島津義久 島津家の当主。義弘の兄 本拠の薩摩にあり、木崎原には出ていない。この勝利をきっかけに日向への進出を本格化させる
島津貴久 義久・義弘の父。前当主 戦いの前年に亡くなる。その死が伊東の出兵を招いたともいわれる

木崎原の戦いに登場した主な武将(伊東方)

人物 立場 この戦いでの動き
伊東義祐 伊東家の当主 自らは出陣せず、一門の将たちに兵を預ける。大敗のあと家中が乱れ、5年後に日向を追われる
伊東祐安 伊東家の一門。伊東軍の大将 加久藤城を夜襲したのち、木崎原で島津勢に討たれる
米良重方 須木城主。島津との境目の小林城を守る 退く伊東軍の殿をつとめて戦死
相良義陽 肥後・人吉の大名 伊東と結んでいたが、木崎原の戦いには加わらなかったとされる。のちに島津に降る
伊東祐兵 義祐の子 この戦いの後、父とともに日向を追われる。のちに秀吉に仕え、九州征伐ののち飫肥の大名として伊東家を再興する

木崎原の戦いの流れ ― 加久藤城の夜襲から木崎原の決戦まで

飯野城・加久藤城・木崎原・小林城方面と、伊東軍・島津勢の動きを示した位置関係図
飯野城・加久藤城・木崎原の位置関係。伊東軍は東の小林方面から攻め込んだ(イメージ図)

① 5月3日夜 ― 加久藤城への夜襲

夜、山の上の小さな城に松明を掲げて攻め寄せる伊東軍と、守る城兵のイメージ
夜の加久藤城に攻め寄せる伊東軍(イメージ)

5月3日の夜、伊東祐安らが率いる約3,000の伊東軍は、真幸院へ攻め込みました。狙いは義弘の本城・飯野城ではなく、その西にある加久藤城です。ここには義弘の妻子がいましたが、守る兵はわずかでした。城を落とし、義弘の家族を押さえれば、飯野城も持ちこたえられなくなるという計算です。

ところが加久藤城の城兵は必死に守り、伊東軍は城を落とせませんでした。夜が明けるころ、伊東軍は囲みを解いて引き揚げはじめます。

② 5月4日朝 ― 義弘の出陣と、兵の分け方

知らせを受けた義弘は、すぐに飯野城を出ました。手もとの兵は300ほど。義弘はこの少ない兵をさらに分け、一部を加久藤城の救援に向かわせ、一部を伊東軍の退く道の近くに伏せさせ、自らは本隊を率いて伊東軍に向かいました。さらに、近くの山に旗を立てて大軍がいるように見せかけたとも伝わります。

③ 池島川のほとり ― 休む伊東軍

夜通し戦った伊東軍は疲れきっていました。引き揚げる途中、木崎原の近くの川のほとりで足を止め、兵たちは甲冑を脱いで汗を流し、休みをとったといいます。相手は少ない島津勢、加久藤城は落とせなかったが損害も大きくない。そんな油断があったのかもしれません。

④ 木崎原の激戦 ― 釣り野伏せ

そこへ義弘の本隊が攻めかかりました。不意をつかれた伊東軍でしたが、兵の数ではまだ10倍です。立て直して押し返してくると、義弘の兵はわざと崩れたように見せて退きます。勢いづいて追ってきた伊東軍が木崎原に入ったところで、伏せていた島津の兵が左右から一斉に立ち上がり、鉄砲と槍で襲いかかりました。

正面の兵がおとりとなって敵を引き込み、伏兵が横から襲う。のちに島津家のお家芸といわれる「釣り野伏せ」の、もっとも早い例のひとつとされる戦い方です。前後左右から攻められた伊東軍は大混乱におちいり、大将の伊東祐安が討たれました。ほかにも伊東一門の将や、殿をつとめた米良重方など、名のある武将が次々に命を落とします。

⑤ 勝利の代償

島津方の勝利でしたが、犠牲も大きなものでした。加久藤城の救援から挟み撃ちに加わった遠矢良賢のように、義弘を退かせるために踏みとどまって討ち死にした者も多く、義弘の兵の多くがこの戦いで命を落としたといわれます。伊東方・島津方の戦死者の数は、史料によって大きく異なります。

なぜ300で3,000に勝てたのか

理由 内容
加久藤城が持ちこたえた 夜襲で城が落ちていれば、義弘は家族を人質にとられ、戦う前に負けていた。城兵の踏ん張りがすべての出発点
疲れて油断した敵を襲った 夜通し戦い、引き揚げる途中で休んでいた伊東軍を、すかさず攻めた
少ない兵をさらに分けた 本隊・伏兵・救援に兵を分け、正面の兵がおとりとなって伏兵の前に敵を引き込んだ(釣り野伏せ)
大将を討ち取った 大将の伊東祐安らが早く討たれ、数で勝る伊東軍が指揮を失って崩れた

少数で大軍を破る戦いは、桶狭間や厳島などほかにもあります。木崎原の特徴は、守る側の義弘が攻めてきた敵の帰り道をねらい、少ない兵をあえて分けて使ったことです。この戦い方は、のちの耳川の戦いや沖田畷の戦いでも、島津の勝ちパターンとしてくり返されていきます。

木崎原の戦いのその後

人物・家 その後
伊東義祐 多くの将を失った伊東家では家臣の離反が続き、天正5年(1577)に日向を捨てて豊後の大友宗麟を頼る(伊東崩れ)。その後は各地を流浪した
伊東祐兵 父とともに豊後へ逃れたのち、秀吉に仕える。九州征伐ののち日向の飫肥を与えられ、伊東家は江戸時代も飫肥藩として続く
大友宗麟 伊東を助けることを名目に日向へ攻め込むが、天正6年(1578)の耳川の戦いで島津に大敗する
相良義陽 天正9年(1581)に島津に降り、島津の先手として阿蘇家と戦って討ち死にする
島津義弘 耳川・沖田畷など九州での戦いで活躍し、のちに朝鮮出兵の泗川の戦い、関ヶ原の島津の退き口で名をとどろかせる
島津家 日向を手に入れ、九州統一の一歩手前まで勢力を広げる。しかし天正15年(1587)、秀吉の九州征伐で降伏する

筆者のひとこと

木崎原の戦いは、桶狭間や沖田畷と並ぶ、少数が大軍に勝った戦いだと思います。「釣り野伏せ」は、島津家のお家芸ともいえる戦法でした。ただ、この戦いではもともと少ない兵をさらに分けて戦っています。それで大軍の伊東軍が混乱したのでしょうか。

そして、これらの戦いに共通するのは、相手の大将を討ち取っている点だと思います。

私個人としては、島津のこうした戦いぶりがとても好きです。朝鮮での泗川の戦いでも、「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と呼ばれて恐れられたといわれます。

まとめ

木崎原の戦いは、伊東軍約3,000の加久藤城夜襲から始まりました。城兵が持ちこたえたことで、義弘は反撃の時間を得ます。義弘は少ない兵を分けて伏せ、退いて休む伊東軍を襲い、大将の伊東祐安を討ち取りました。この一戦で伊東家は坂を転げ落ちるように衰え、島津家は九州統一への道を歩みはじめます。「九州の桶狭間」は、島津が九州の覇者となる出発点でした。

  • URLをコピーしました!

ほかの武将も見る

目次