近衛前久 | 謙信とともに関東へ下った行動派の関白。秀吉を猶子にして関白への道を開いた公家

近衛前久のイラスト(イメージ)

このえ さきひさ

地域近畿(京)
所属勢力・属性近衛家(関白・太政大臣)
大名家近衛家(五摂家)
家紋近衛牡丹
主武器―(鷹狩り・馬)
衣装・甲冑衣冠・狩衣
武将タイプ行動派の公家

近衛前久(このえ さきひさ)は、五摂家の筆頭・近衛家の当主で、関白をつとめた公家である。天文5年(1536年)に生まれ、慶長17年(1612年)に77歳で亡くなった。公家でありながら上杉謙信とともに関東へ下るなど、戦国の世を大胆に生きた。のちに羽柴秀吉を猶子(養子)とし、秀吉が関白になる道を開いた。

3行でわかる近衛前久
  • 19歳で関白となり、上杉謙信と盟約を結んで関東へ下った
  • 織田信長と親しく、本願寺との和睦の仲立ちをした
  • 秀吉を猶子とし、秀吉が藤原の姓で関白に就任するのを助けた
目次

謙信と関東へ

前久は近衛稙家の子として生まれ、天文23年(1554年)、19歳で関白となった。永禄2年(1559年)に上洛した長尾景虎(のちの上杉謙信)と意気投合し、盟約を結んだ。

永禄3年(1560年)、前久は関白の身でありながら越後に下り、謙信の関東出陣にあわせて下総の古河城に入った。謙信のもとで関東をまとめようとしたが、思うようにいかず、のちに京へ戻った。

信長との交わり

京に戻った前久は、のちに織田信長と親しくなった。鷹狩りや馬を好む点でも信長と気が合ったといわれる。天正8年(1580年)には、信長と石山本願寺の和睦の仲立ちをした。

天正10年(1582年)の本能寺の変のあと、明智光秀に味方したのではと疑われ、一時は徳川家康を頼って遠江に逃れた。

秀吉の関白就任

天正13年(1585年)、秀吉は関白の地位をのぞんだ。関白は五摂家の者がつく職だったため、前久は秀吉を自分の猶子(名目上の養子)とし、秀吉は藤原の姓で関白に就任した。のちに秀吉は「豊臣」の姓を朝廷から与えられている。

前久は晩年、京の東山で暮らし、慶長17年(1612年)に亡くなった。娘の前子は秀吉の養女として後陽成天皇に嫁いでいる。

近衛前久をめぐる人物

  • 父:近衛稙家
  • 子:近衛信尹(信輔)
  • 猶子:豊臣秀吉
  • 盟約を結んだ相手:上杉謙信
  • 娘:近衛前子(後陽成天皇の妃)

ゆかりの地

  • 京都御苑(近衛邸跡)(京都市上京区):近衛家の屋敷があった地
  • 古河城跡(茨城県古河市):前久が関東で入った城
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