岩屋城の戦いをわかりやすく解説|高橋紹運はなぜ763人で玉砕したのか ― 島津の大軍、宝満城・立花山城、息子・立花宗茂へつないだ時間

島津の大軍に囲まれた岩屋城で抗戦する高橋紹運の城兵を描いた日本画風イラスト

天正14年(1586)7月、筑前の岩屋城(いまの福岡県太宰府市)で、城主の高橋紹運と城兵763人が全員討ち死にしました。九州の統一を目前にした島津の大軍を、わずかな兵で半月近く食い止めた末のことです。紹運はなぜ降伏せず、玉砕の道を選んだのか。岩屋城・宝満城・立花山城の3つの城をめぐる戦いと、その時間稼ぎが秀吉の九州征伐にどうつながったのかを、わかりやすく解説します。

先に答え

岩屋城の戦いは、大友家の重臣・高橋紹運が、九州統一をめざす島津の大軍を岩屋城で迎え撃った戦いです。紹運は降伏の勧めを断って戦い続け、城兵763人とともに全員が討ち死にしました。

紹運が稼いだ時間と、島津軍が受けた大きな損害によって、長男の立花宗茂が守る立花山城は落ちずにすみました。やがて秀吉の大軍が九州へ向かうと島津は兵を引き、翌年の九州征伐で豊臣方に降ります。

岩屋城の戦いの基本データ
いつ天正14年(1586)7月中旬〜7月27日
どこ筑前国の岩屋城(福岡県太宰府市、四王寺山の中腹)
対立大友方(高橋紹運)× 島津方(島津忠長・伊集院忠棟ら)
兵力高橋方 763人、島津方 2万〜5万(いずれも諸説あり)
結果岩屋城は落城し、紹運以下全員が討ち死に。島津方も数千の死傷者を出したとされる

秀吉が九州へ出陣する前のできごとで、大河ドラマ『豊臣兄弟!』で描かれる秀吉・秀長の九州征伐のすぐ前にあたります。

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目次

なぜ岩屋城が狙われたのか

天正6年(1578)の耳川の戦いで大友家が島津に大敗してから、九州の勢力図は大きく変わりました。沖田畷の戦いで龍造寺隆信も討ち取った島津義久は、残る大友領に迫ります。追い詰められた大友宗麟は、天正14年4月に大坂城へ赴き、秀吉に助けを求めました。

秀吉の軍勢が九州に来る前に、九州を手に入れてしまいたい。島津はそう考えて、北の筑前へ大軍を送ります。筑前で大友方の拠点として残っていたのが、太宰府や博多を見下ろす3つの城でした。

城守っていた人立場
岩屋城高橋紹運大友家の重臣。宝満城とあわせて筑前の南を守る
宝満城高橋統増(紹運の次男)岩屋城の背後、宝満山の山頂にある城
立花山城立花宗茂(紹運の長男)博多を見下ろす大友方の最大の拠点。宗茂は立花道雪の婿養子

3つの城を守っていたのは、紹運と2人の息子でした。最前線の岩屋城が、島津の大軍を最初に受け止めることになります。

岩屋城・宝満城・立花山城の位置関係図
岩屋城・宝満城・立花山城の位置関係(イメージ図)
立花山の遠景
宗茂が守った立花山。山頂に立花山城があった(写真提供:知人)

岩屋城の戦いに登場した主な武将(大友方)

人物立場この戦いでの動き
高橋紹運岩屋城主。大友家の重臣降伏を断って抗戦し、城兵とともに討ち死に。39歳
立花宗茂紹運の長男。立花山城主父に立花山城へ移るよう勧めたとも伝わる。島津の撤退後に反撃する
高橋統増紹運の次男。宝満城主岩屋城落城のあと宝満城を開き、島津方に捕らえられる
屋山種速紹運の宿老岩屋城で最後まで戦い討ち死に
萩尾治種紹運の家臣鉄砲隊を率いて島津軍に激しく射撃し、討ち死に
立花道雪宗茂の養父前年の天正13年に陣中で病死。紹運とともに大友家を支えた
立花誾千代道雪の娘で宗茂の妻立花山城にあったとされる

岩屋城の戦いに登場した主な武将(島津方)

人物この戦いでの動き
島津義久島津家の当主。九州の統一をめざし、筑前へ大軍を送る
島津忠長島津一門。筑前攻めの大将の一人として岩屋城を攻める
伊集院忠棟島津家の筆頭家老。筑前攻めの指揮をとる
筑紫広門肥前の勝尾城主。岩屋城攻めの直前に島津に攻められて降る
秋月種実筑前の古処山城主。大友に背き、島津に味方する
島津の大軍に囲まれた岩屋城のイメージ
島津の大軍に囲まれた岩屋城(イメージ)

岩屋城の戦いの流れ

① 島津の大軍が筑前へ

天正14年7月、島津軍はまず筑紫広門の勝尾城を落とし、つづいて岩屋城を囲みました。対する岩屋城の兵は763人。数十倍の敵でした。

② 降伏を断る

島津方は城を明け渡すよう何度も勧めたと伝わります。しかし紹運はこれを断りました。立花山城の宗茂は父に、より守りやすい立花山城へ移るよう勧めたともいわれますが、紹運は岩屋城を動きませんでした。

③ 半月近い攻防

山の中腹にある岩屋城は、大軍が一度に攻め寄せられる城ではありません。城兵は鉄砲や弓、石を落として攻め手を何度も追い返しました。島津軍は多くの死傷者を出しながら、少しずつ城の曲輪を奪っていきます。

④ 7月27日、落城

7月27日、島津軍の総攻撃でついに本丸が落ちます。紹運は城兵とともに最後まで戦い、自害しました。城兵763人は一人残らず討ち死にしたと伝わります。紹運の辞世は「流れての 末の世遠く 埋もれぬ 名をや岩屋の 苔の下水」とされます。

岩屋城跡 「嗚呼壮烈岩屋城址」の碑
岩屋城跡に立つ「嗚呼壮烈岩屋城址」の碑(写真提供:知人)

紹運が稼いだ時間 ― 立花山城は落ちなかった

岩屋城を落としたあと、島津軍は宝満城を開城させ、紹運の次男・統増を捕らえました。そして最後に残った立花山城へ向かいます。しかし岩屋城で受けた損害は大きく、すでに7月が終わっていました。

8月になると、秀吉の命を受けた毛利勢が九州へ渡る準備を進め、島津軍は立花山城を落とせないまま兵を引きます。宗茂は撤退する島津軍を追って高鳥居城を落とし、岩屋城と宝満城も取り戻しました。紹運が岩屋城で半月近く島津を足止めしたことが、息子の城と大友家を救ったのです。

宝満城跡 山中に残る石垣
宝満城跡の山中に残る石垣(写真提供:知人)

岩屋城の戦いのその後 ― 秀吉の九州征伐へ

人物・家その後
豊臣秀吉・豊臣秀長天正15年(1587)、大軍で九州へ。秀吉は肥後から、秀長は日向から攻め入る(九州征伐)
島津義久根白坂の戦いで秀長に敗れ、5月に降伏する
立花宗茂九州征伐の功により筑後柳川13万石余の大名となる。秀吉から「九州の一物」とたたえられたと伝わる
高橋統増島津から解き放たれ、筑後三池郡に1万8千石を与えられる。のちに立花直次と名乗る
立花家・三池立花家江戸時代、宗茂の立花家は柳川藩、統増(直次)の家は三池藩として続く

筆者のひとこと

岩屋城跡 本丸跡と太宰府の眺め
岩屋城の本丸跡。太宰府の町を見下ろす(写真提供:知人)

私はまだ岩屋城を訪れたことがありません。この記事の写真は、知人からいただいたものです。

岩屋城でいちばん心に残るのは、紹運と763人の城兵の玉砕です。

この時代、義に殉じて死を選ぶ武将もいれば、あっさりと降る武将もいました。紹運は、後ろに控える息子たちの城を守るために、負けるとわかっている前線の城で命をかけました。頑固な一面もあったのでしょう。戦略だけを考えるなら、後ろの城まで退いて時間をかせぐこともできたはずです。

それでも紹運は、あえて玉砕を選びました。そして城兵のほとんどが紹運に従ったといいます。こうした話がどこまで事実かはさておき、ひとつの美談として語り継がれていることは確かです。

その後、息子の立花宗茂が大名として出世していったことを思えば、紹運が考えていたことは、そのとおりに実現したのだと思います。

まとめ

岩屋城の戦いは、勝ち負けだけを見れば大友方の完敗でした。しかし紹運と763人が島津を足止めしたことで立花山城は守られ、やがて秀吉の九州征伐によって島津の九州統一は止まります。宗茂がのちに柳川の大名となり「西国無双」とたたえられたことを思うと、岩屋城の玉砕は無駄ではありませんでした。

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