いのうえ ゆきふさ
| 地域 | 九州 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 黒田家臣 |
| 大名家 | 黒田 |
| 家紋 | 藤巴 |
| 主武器 | 大槍 |
| 衣装・甲冑 | 重厚具足 |
| 武将タイプ | 勇猛・頑強 |
井上之房とは — 黒田家最古参の豪傑
井上之房(いのうえ ゆきふさ)は、通称を井上九郎右衛門といい、黒田官兵衛(孝高)とその子・長政の二代に仕えて数々の合戦で武功を重ねた、黒田家でも最古参といわれる歴戦の武将である。のちに主君の武勇を支えた精鋭「黒田二十四騎」、さらにその中核をなす「黒田八虎」の一人に数えられ、筑前福岡藩の重臣として大身の家老にまで昇りつめた人物として伝えられている。
播磨に生まれ、小寺・黒田家に仕える
之房は1554年、播磨国(現在の兵庫県南部)に生まれたと伝えられ、若くしてまだ播磨の一土豪にすぎなかった黒田家に仕え、主家の浮沈をともにする道を歩みはじめた。戦国も半ばを過ぎたこの時代、播磨は西の毛利氏と東から伸びる織田氏の勢力がせめぎ合う最前線であり、黒田家もまた大勢力のはざまで生き残りを賭けた難しい舵取りを迫られていた。
主君・黒田官兵衛という存在
主君の黒田官兵衛は、早くから織田信長、次いで羽柴秀吉に付くべきと見抜いた稀代の軍師であり、その先見と調略の才によって黒田家を天下取りの中枢へと押し上げていった。官兵衛が有岡城で荒木村重に捕らえられ一年余りを幽閉された苦難の際にも、之房ら家臣団は主家を離れず結束を守り抜いたと伝えられ、この忠節が黒田武士団の絆の原型となった。こうした主従の強い結びつきの下で、之房もまた一介の武辺者から黒田家を代表する将へと着実に鍛えられていったのである。
黒田二十四騎と八虎のなかで
「黒田二十四騎」とは、官兵衛・長政父子を戦場で支えた二十四人の精鋭を後世に選び顕彰したもので、之房はその一員として、とりわけ武勇に秀でた者と目されていた。さらに二十四騎の中でも武功抜群の中核八人を指す「黒田八虎」にも数えられ、母里友信や栗山利安といった名だたる猛将と肩を並べる存在であったと伝えられている。
同僚たち — 母里太兵衛・栗山善助・後藤又兵衛
之房の同僚には、大盃の逸話と名槍「日本号」で知られる母里友信(太兵衛)、官兵衛を支えた筆頭家老格の栗山利安(善助)、のちに「槍の又兵衛」と謳われた後藤基次らがいた。こうした個性豊かな猛者たちが互いに競い合い、また補い合ったことで黒田家の武名は天下に轟き、之房もその一角として先鋒や殿軍といった危険な役どころをしばしば担ったといわれる。彼らの逸話の多くは後年に語り継がれた性格のものだが、それだけ黒田家臣団が世に強い印象を残した証しともいえよう。
豊前中津への移封と九州の動乱
1587年の九州平定の功により、黒田家は豊前国中津(現在の大分県北部)に十数万石を与えられて移り、之房ら家臣団も新たな領国の経営と在地勢力の鎮圧にあたることとなった。慣れぬ土地では旧領主に連なる国人らの一揆が相次ぎ、之房はこうした平定戦のなかでも先手を務めて武功を挙げ、黒田家中における武将としての評価をいっそう高めていったと伝えられる。
朝鮮出兵での武功
秀吉が二度にわたって強行した朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では、黒田長政が一軍を率いて渡海し、之房もこれに従って異国の険しい戦場を転戦したと伝えられている。とりわけ慶長の役における蔚山城をめぐる攻防など、多勢の敵に囲まれた苦しい籠城戦において、之房は奮戦して味方の危機を支えた一人であったといわれる。異国での長い遠征は将兵に大きな消耗を強いたが、それをくぐり抜けた経験は、之房ら黒田の古参をいっそう練達の士へと育てていった。
関ヶ原前後の働き
1600年の関ヶ原の戦いに際して黒田長政は東軍の中心として本戦に臨み、一方で父・官兵衛は九州で挙兵し、石垣原などで西軍方の大友義統を破る鮮やかな働きを見せた。之房もこの黒田父子の東西にわたる働きのなかで役割を担ったと伝えられ、こうした一連の武功が、戦後に黒田家が大きく飛躍する足がかりとなっていったのである。
筑前福岡52万石の重臣として
関ヶ原の戦功により黒田長政は筑前一国およそ52万石を与えられて福岡藩を興し、之房ら功臣たちも大身の禄を分かたれて、新たな大藩の屋台骨を支える立場となった。之房は家老として三奈木(現在の福岡県朝倉市周辺)に一万数千石を領したと伝えられ、これは福岡藩の家臣のなかでも屈指の大身であり、彼に寄せられた重きをよく物語っている。戦場での武勇のみならず、平時の統治や家中の差配においても、之房は老練な宿老として藩政の安定に力を尽くしたとみられる。
之房の人物像と後世への影響
武辺一辺倒ではなく、主家の草創から大藩の確立までを見届けた之房は、老練な宿老として若い藩主や家中を支え、1634年に八十年ほどの生涯を閉じたと伝えられている。その血脈は三奈木黒田家として福岡藩に重きをなし続け、之房は「黒田二十四騎」の武名とともに、黒田武士団の結束を体現した古豪として今日まで語り継がれている。

