ほり ひではる
| 地域 | 甲信越(越後) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 豊臣家・徳川家に従う |
| 大名家 | 堀家 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | ―(采配) |
| 衣装・甲冑 | 具足・陣羽織 |
| 武将タイプ | 父の跡を継いだ若き国主 |
堀秀治(ほり ひではる)は、「名人久太郎」と呼ばれた堀秀政の長男である。天正18年(1590)に父が小田原の陣中で急死したため、15歳で越前北ノ庄18万石を継いだ。のちに越後へ移って30万石の大名となり、関ヶ原の戦いでは東軍について越後の一揆を鎮めた。
目次
父の急死と家督相続
天正18年の小田原征伐に父とともに出陣した秀治は、陣中で父を病で失い、そのまま家督を継いだ。同じ年に豊臣の姓を許されている。文禄の役では肥前名護屋に在陣し、名護屋城のまわりには秀治の陣跡が残る。
越後への移封と上杉家との因縁
慶長3年(1598)、秀治は越前北ノ庄から越後春日山30万石へ移された。越後は会津へ移った上杉景勝の旧領である。このとき上杉家の家老直江兼続が、その年の前半の年貢をすでに取り立てて会津へ持ち去っていたため、秀治は返還を求めたが聞き入れられなかった。若い国主の秀治を、一族の堀直政が支えた。
関ヶ原と越後一揆
秀吉が亡くなると、秀治は徳川家康に近づいた。慶長5年(1600)に関ヶ原の戦いが起こると東軍につき、上杉旧臣や寺社勢力が起こした越後の一揆(上杉遺民一揆)を鎮めて、戦後に所領を安堵された。検地の実施や、春日山から福島(現在の上越市)への居城移転にも取り組んだが、慶長11年(1606)、31歳で亡くなった。
堀秀治をめぐる人物
ゆかりの地
- 春日山城跡(新潟県上越市):秀治が入った越後の本拠
- 北ノ庄城跡(福井県福井市):父から受け継いだ越前の居城
- 堀秀治陣跡(佐賀県唐津市):名護屋城を囲む陣跡のひとつ(国の特別史跡)


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