城親基 | 肥後隈本の城氏一族、出田一要とも

城親基のイラスト(イメージ)

じょう ちかもと

地域肥後国(熊本県)
所属勢力・属性肥後国人・城氏一族
大名家城氏(大友氏・島津氏に従属、のち豊臣氏)
家紋―
主武器刀
衣装・甲冑当世具足
武将タイプ知将・調整役

城親基は、戦国時代の肥後国隈本(いまの熊本市)を治めた城氏の一族である。出田一要(いでた いちよう)とも呼ばれる。若い当主の城久基を支え、豊臣秀吉の九州平定のときに城氏を豊臣方へ導いたとされる。

目次

隈本城を治めた城氏

城氏は、肥後の名門である菊池氏から分かれた一族とされる。鎌倉時代に菊池氏の一族が城村に住み、その地名を名字にしたと伝わる。

戦国時代、城氏は豊後の大友氏に従った。天文19年(1550)の二階崩れの変の後、城親冬が隈本城に入ったとされる。隈本城は、のちの熊本城のもとになった城で、いまの熊本市中央区古城町のあたりにあった。

親冬の跡を継いだ城親賢は、天正6年(1578)ごろ島津氏の支えで大友氏の支配から抜け出した。しかし天正9年(1581)には龍造寺氏に攻められて従っている。親賢は同年12月に亡くなった。熊本の植木市は親賢の指示で始まったと伝わる。

親基の続柄と立場

親基は城親冬の子とされ、親賢とは兄弟にあたるとみられる。ただし系図には食い違いがあり、親子関係ははっきりしない部分が残る。

親賢の死後、城氏を継いだのは親賢の嫡男の城久基であった。久基はまだ若く、親基がこれを補佐したとされる。城氏は龍造寺氏と争い、のちに島津氏へ近づいた。

豊臣秀吉への帰順

天正15年(1587)、豊臣秀吉が九州へ攻め込んだ。このとき城氏は島津氏を見限り、豊臣方に従ったとされる。秀吉が隈本城に入った後、親基は大坂に出仕したという。時の流れを読むことにたけた人物と評される。

同じ年、肥後では佐々成政の検地に反発した国人一揆が起こった。多くの肥後国人が一揆に加わって所領を失ったが、城氏は大坂にいたため一揆に加わらず、家を保ったとされる。そのかわり城氏は肥後を離れ、筑後に移された。

城氏の断絶

筑後に移った後、当主の久基は若くして亡くなった。その年は天正16年(1588)とも文禄元年(1592)ごろともいわれ、はっきりしない。

久基の死後、親基が家督を継いで城の姓に戻ったとする話もある。しかし親基も文禄2年(1593)ごろに亡くなり、城氏の本家は絶えたとされる。肥後の名家であった城氏は、豊臣政権のもとで故郷を離れ、まもなく歴史から姿を消した。

ゆかりの地

  • 隈本城跡・古城(熊本県熊本市中央区古城町):城氏が本拠とした隈本城があった場所。のちの熊本城のもとになった。
  • 熊本城(熊本県熊本市中央区本丸):加藤清正が隈本城の地域に築き直した城。日本100名城の一つ。

参考にした資料

城親基とは

城親基は、肥後の隈本城を治めた城氏の一族です。

隈本城

隈本城は、のちに加藤清正が築いた熊本城のもとになった城です。

城氏

城氏は、肥後の名門・菊池氏の一族とされ、隈本を本拠としました。

秀吉への帰順

秀吉の九州平定の際、城氏は秀吉に従いました。

評価

親基は、隈本を治めた城氏の一人として、九州平定の時代を生きた人物です。城氏は、その後まもなく途絶えました。

このイラストについて

このイラストは、山城を背に座る親基を描いています。

若々しい顔と赤い衣の甲冑で、城氏の一族としての姿を表しました。

霧の立つ山と城は、城氏が治めた隈本のあたりをイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

肥後国人衆

肥後では守護の菊池氏が衰えた後、阿蘇氏や、隈部・城・赤星・甲斐などの国衆がそれぞれの地域を治めていた。彼らは大友・龍造寺・島津という周りの大勢力のあいだで、従う相手を変えながら生き残りをはかった。

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